竜田藩

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竜田藩(たつたはん)は、江戸時代前期に大和国平群郡に存在したである。藩主家は片桐氏。藩庁は竜田城。現在の奈良県生駒郡斑鳩町に存在した。

概要[編集]

藩祖は豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の1人に数えられた片桐且元である。慶長6年(1601年)、且元は徳川家康から播磨国伊勢国の領地6300石を大和国平群郡に移され、さらに1万8000石を加増された。これにより竜田藩が立藩した。なお、且元は秀吉から1万石を与えられていたので、家康から加増された1万8000石を合わせて2万8000石となった。

且元は関ヶ原の戦い後も、家老として豊臣秀頼に仕え、大坂の陣直前でも豊臣氏徳川氏の対立を避けることに尽力したが、家康との交渉の過程で且元が家康に内通していると猜疑されたことから大坂城からの退去を余儀なくされ、且元は家康についた。そして大坂の陣でも功績を挙げたことからさらに加増され、且元は山城国河内国和泉国・大和国などにおいて合計4万石を領する大名となった。

且元は大坂の陣で豊臣氏が滅んでから間もなく死去し、次男の孝利が跡を継ぐ。孝利は高野山造営奉行などを務めるも、寛永15年(1638年)に死去した。孝利には嗣子が無かったため、弟の為元がペナルティとして4万石を1万石に減らされた上で相続が許された。承応3年(1654年)、為元は死去し、長男の為次が跡を継いだ。明暦元年(1655年)、為次は15歳で早世し、これにより竜田藩片桐家は無嗣断絶改易となった。

しかし江戸幕府は藩祖・且元の功績を考慮し、為元の次男・片桐且照に3000石を与えて寄合旗本に取り立てて家系を存続させた。ところが且昭にも子が無く、やむなく片桐且元の甥・片桐貞昌の次男である片桐貞就養子にして跡を継がせたが、この貞就まで継嗣無く17歳の若さで早世。これにより且元の家系は完全に断絶した。

歴代藩主[編集]

片桐家

外様 1万石→2万8000石→4万石→1万石

  1. 且元
  2. 孝利
  3. 為元
  4. 為次