大洲藩
大洲藩(おおずはん)は、江戸時代から明治時代初期まで伊予国大洲に存在した藩である。藩庁は大洲城。現在の愛媛県大洲市に存在した。なお、当初は伊予大津藩という呼び名であった。
概要[編集]
豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部元親が降伏した後、大洲領は豊臣氏の家臣である戸田勝隆、藤堂高虎らが支配した。
慶長14年(1609年)、秀吉の家臣で賤ヶ岳七本槍の1人である脇坂安治が、淡路国洲本藩から5万3500石で入封したことにより、大洲藩が立藩した。元和3年(1617年)、安治の子で第2代藩主の安元は、信濃国飯田藩に移封となった。
代わって加藤貞泰が伯耆国米子藩より6万石で入封した。この貞泰は秀吉の古くからの家臣だった加藤光泰の嫡男である。貞泰の所領は喜多郡・浮穴郡・伊予郡・風早郡などの4郡にあった。なお、当地は貞泰が入封した頃は大津(おおつ)と言われていたが、貞泰はこれを大洲と改名した。
この藩で特に著名な出来事と言われると少ないのだが、貞泰の家臣に中江吉長という者がいた。この吉長の孫で養子になったのが有名な陽明学者の中江藤樹である。藤樹は大洲藩士のために『大学啓蒙』を著し、その学問は大きな影響を与えて多くの門人を輩出した。なお、藤樹は大洲藩の郡代官を務めている。
元和9年(1623年)、第2代藩主の泰興は弟の泰但(後の直泰)に喜多郡13村など1万石を分与して支藩の新谷藩を立藩させた。
この藩は製紙業に恵まれ、製紙における収入が藩の総収入の8割に達するなど、藩財政の大黒柱であった。しかし逆を言えば、米などの収入にはあまり恵まれておらず、そのため年貢を過重に課した結果、第6代藩主の泰衑の時代である寛延3年(1750年)には浮穴郡の百姓1万8000人による大一揆が発生する。この時、一部の百姓は藩に対して強訴し、残りは隣藩の宇和島藩に逃げ出すほどで、大洲藩ではやむなく百姓の訴えを聞き入れて決着をつけた。また、製紙業に依存し過ぎた結果、藩では収入を製紙業に頼り切るようになり、遂には専売制にしてしまうが、この専売制における藩役人の不正や取り締まりの余りの厳しさ、商人の暴利などが重なって、第10代藩主の泰済の時である文化13年(1816年)には大洲紙騒動まで発生してしまう有様であった。
幕末に入ると、大洲藩は近隣に長州藩、さらに土佐藩が存在していたこともあり、藩論は早くから尊王攘夷であった。第13代藩主の泰秋は討幕運動の機運が高まると尊王倒幕に方針を転換し、長州藩や土佐藩と連携して討幕運動に加わった。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により、旧大洲藩領を管下とする大洲県が設置され、大洲藩は廃藩となった。ところが、廃藩置県に反対する4万人の農民が一揆を起こし、大洲藩大参事であった山本尚徳が自殺することで決着している。
歴代藩主[編集]
脇坂家[編集]
外様 5万3000石 (1608年 - 1617年)
加藤家[編集]
外様 6万石 (1617年 - 1871年)
支藩[編集]
幕末の領地[編集]
大洲藩領[編集]
新谷藩領[編集]
- 伊予国
- 浮穴郡のうち - 8村
- 伊予郡のうち - 3村
- 喜多郡のうち - 3村