第一次世界大戦
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英:First World War、World War I、WW1)とは、1914年7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告して勃発した戦争である。戦場はヨーロッパ全土を巻き込み、参戦国は全世界に広がった。
名称[編集]
当時の日本国内での名称は「欧州大戦」、「欧州大戦争」、「世界大戦」等と言われた。
交戦国家[編集]
連合国 | 同盟国 |
---|---|
大英帝国 | ドイツ帝国 |
フランス共和国 | オーストリア・ハンガリー帝国 |
ロシア帝国 | オスマン帝国 |
セルビア王国 | ブルガリア王国 |
イタリア王国 | -- |
アメリカ合衆国 | -- |
ギリシア王国 | -- |
大日本帝国 | -- |
結果[編集]
連合国側の勝利。中世から続いたオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国の滅亡。ドイツ革命、ロシア革命。
概要[編集]
オスマン帝国の弱体化と民族自決の動きはバルカン半島での諸国の独立につながり、国境問題に端を発した第一次バルカン戦争、第二次バルカン戦争でも諸国の不満は消えず、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。このような情勢の中、セルビアの首都サラエボを訪れていたオーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナントとその妻が暗殺され、オーストリアは最後通牒を発した後にセルビアに宣戦布告、次いでセルビアと同盟関係にあったロシアがオーストリアに宣戦布告した。オーストリアと同盟関係にあったドイツはオーストリアとセルビアの2国間の問題に終わるよう期待していたが、ロシアの参戦によりロシアに宣戦布告、ロシアと同盟関係にあったイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、戦場はヨーロッパ全土に広がった。戦争は国家の経済、科学、国民をも巻き込む総力戦となり、飛行船、軍用機、戦車、潜水艦といった新兵器の登場、塹壕戦での膠着状態は戦争の様相を一変させた。また、戦争によりロシア革命が起き、戦後のアジア、アフリカ諸国の民族運動に大きな影響を与えた。
戦史[編集]
当初、兵士らは「クリスマスまでには帰れるだろう」と言って戦場に向かったが、これが4年間にも渡る多数の戦死者を出す大戦争になるとは誰も思わなかった。
西部戦線[編集]
ドイツ軍は破竹の勢いで進撃し、最新鋭の大砲や機関銃を駆使してベルギー軍を打ちのめしフランスに雪崩れ込んだ。しかし、猛スピードの進軍で兵站が伸びきったことや「マルヌ会戦」で敗北したためにパリを占領できず、短期決戦から長期戦へと繋がった。西部戦線では塹壕に備え付けられた機関銃が敵の銃剣突撃を全滅させ、戦死者を多数出した。この膠着した戦線を打開するためにイギリス軍は戦車を投入した。また、ドイツ軍は塩素を使った毒ガスを開発し、英仏軍も反撃で使用したために多くの犠牲者が出た。
1917年に入るとアメリカの参戦や物量の差によりドイツ軍は追い詰められていった。巻き返しを図ろうと1918年春に(ほぼ)全兵力を投入した「カイザー・シュラハト(皇帝の戦い)」と呼ばれる大攻勢を決行するが頓挫しドイツ軍は二度と攻勢をかけることが出来なくなった。
東部戦線[編集]
当初、ロシア軍はドイツ軍に対し圧倒的な戦力差があり圧勝すると思われた。しかし、実際はロシア軍はお家柄で出世した貴族将校が牛耳っており、工業化の遅れから装備も不足していた。また、将軍同士の仲が悪く足並みをそろえられなかった。挙げ句の果てには通信まで完全に傍受されていた。ドイツ軍は1914年8月の「タンネンベルクの戦い」、同9月の「マズール湖の戦い」で大勝利を収めた。相次ぐ敗戦の知らせにロシアでは厭戦状態が広まった。これがもとでロシア革命が発生、革命政府はドイツと単独講和を行い、戦争から離脱した。ドイツは東部戦線から兵力を西部戦線に移し、「カイザー・シュラハト」と呼ばれる大攻勢をかけた。
パレスチナ[編集]
オスマン帝国は同盟国側に立って参戦、戦域はパレスチナやアラビア半島で行われたが、連合国側に有利だった。
アメリカ合衆国の参戦[編集]
イギリス海軍による海上封鎖でドイツ国内の生活は窮乏し、これを打開するためドイツ海軍は連合軍に対する通商破壊のための無制限潜水艦作戦を実施、これは中立国をも対象としたため、ルシタニア号事件が起きた。これによるアメリカ合衆国はモンロー主義を脱して参戦し、これによって戦争は連合国側が圧倒した。
戦争の終結[編集]
さらにスペイン風邪の蔓延は参戦国が動員できる兵士の減少を招き、1918年11月11日にドイツの降伏による連合国側の勝利によって終わった。
日本の対応[編集]
日英同盟に基づき、ドイツに宣戦布告した。大日本帝国は、租借地であった膠州湾に出兵すると共に、海軍は地中海では輸送、船団護衛の任務に就いたため、ドイツ海軍の潜水艦攻撃を受けた。陸軍、海軍は観戦武官数百人をヨーロッパに派遣した。そこで見たものはこれまでの戦争とは比べものにならない物資の消費、動員率、被害であった。ある軍人は「日清戦争が指相撲なら日露戦争は腕相撲、しかし世界大戦は力士が土俵でがっぷり四つに組む大相撲だ」と評した。また、日本国内では未曾有の好景気に沸いた。戦後は国際連盟の委任でドイツ植民地だった南洋諸島の統治を任せられ、南洋庁が設置された。
ベルサイユ条約[編集]
主な取り決め
- ドイツの植民地喪失。
- ポーランド、バルト三国、チェコスロヴァキア等の独立。
- 上記独立に絡んで、オーストリアとハンガリーはともに国土の2/3を失うこととなった。
- ドイツの賠償金。
- ドイツ軍の軍備制限。
- 国際連盟の設立。
被害[編集]
7000万人以上の軍人が動員され、戦闘員900万人、一般市民・文民700万人が死亡した。負傷者は2000万人、捕虜650万人。兵士の移動によるスペイン風邪の流行は全世界で多くの犠牲者を出した。
戦争の影響[編集]
戦争の長期化による不満がロシア革命を起こした。フィンランド、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアがロシアから独立した。
ドイツ革命により、ドイツ帝国は崩壊、オスマン帝国もセーブル条約によって領土はイスタンブル周辺と小アジアのみとなり、本土はギリシア軍の侵略を受けた。トルコ革命によって共和制となった。
オーストリア・ハンガリー帝国はオーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアに分裂した他、ルーマニアやセルビアなどにも一部が割譲され、中世からヨーロッパを支配していた帝国は崩壊。最初に宣戦布告されたセルビアは事実上領土を拡大してユーゴスラビア帝国が成立した。戦後、参戦国が植民地に約束した自治を守らなかったため、民族運動が激化。パレスチナ問題の萌芽となり、現在のイスラエルとアラブ諸国の対立まで尾を引いている。
軍備の増強は経済を圧迫し、また、軍事費の圧縮と国際平和のために海軍軍縮条約が締結された。一方、戦車、潜水艦、軍用機といった新兵器の登場によって軍隊は近代化を迫られた。これらを持たない国家はイギリス、フランス、ドイツから教官を招き、大量に余った新兵器を購入した。
戦争によって職場から多くの従業員が兵士として駆り出され、その代わりに女性がその職に就くようになり、女性の社会進出が進んだ。19世紀以前の価値観が破壊され、婦人参政権運動が活発になり、実際、婦人参政権を勝ち取った国もあった。新しい文化も芽生え、衣服、礼儀作法にも影響を与えた。
第二次世界大戦へ[編集]
巨額の賠償金支払いを求められたドイツではインフレーションが加速し、経済が混乱した。それ以外のヨーロッパ諸国も不況に陥り、戦争の爪跡が大きかった。一方、アメリカ合衆国は国土に被害はなく、戦争によって経済が活性化し、株価も上昇していった。しかし、世界恐慌による社会不安を背景に全体主義が台頭し、民主主義の伝統に乏しく英仏ほどは植民地を持っていない大日本帝国、ドイツ、イタリア王国はイギリスとフランスのブロック経済に対向し、失業者を弱小国への海外進出と軍需工場に求め、満州事変、チェコスロバキア分割、第二次エチオピア戦争を引き起こし、第二次世界大戦の遠因となった。
その他[編集]
ヨーロッパ各地には当時の不発弾が多数残っており、これの除去には数百年かかると言われている。