玄広恵探

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玄広 恵探(げんこう えたん、永正14年(1517年) - 天文5年6月10日1536年6月28日))は、戦国時代僧侶武将。父は今川氏親。母は側室福島氏の娘。兄に今川氏輝今川彦五郎、弟に象耳泉奘今川義元今川氏豊ら。

生涯[編集]

今川氏親の3男[1]。母は今川家の有力家臣である福島氏の娘[1][2]。系図によると福島左衛門の娘と福島安房守の娘の2つの記録があり、これが誰のことかはわかっていない[1]福島助春が左衛門を名乗って永正年間に活動が見られるため、この助春が娘の父親ではないかと推測されている[1]

3男で庶子のため、幼少期に既に寺に預けられて出家し、駿河志太郡花倉の律宗遍照光寺に預けられる[1][3]。この際、良真(りょうしん)[3]と名乗り、後に玄広恵探と改名した[1]。また東栄大徳(とうえいだいとく[3])とも称し、地名から花倉殿花蔵殿)とも称された[1]

天文5年(1536年)3月17日に氏輝、彦五郎が同時に急死して今川家に当主がいなくなったため、4月27日頃から異母弟の義元と家督をめぐって争った(花倉の乱)。義元の側には有力重臣の岡部親綱由比光教、側近の太原雪斎が与したのに対し、恵探には生母の実家の福島氏しか支援がなかった。さらに今川家の同盟者である北条氏綱まで義元に味方したため[2]、恵探は争いに敗れた。『駿河記』によると6月10日、花倉城に篭城して義元軍を防衛していた恵探は多勢に微勢で遂に負けて花倉から落ち延びて瀬戸ヶ谷の高山寺に逃げ延びた。しかしそこも義元軍の追撃を受けて寺に火をかけられたため、さらに西に向けて落ち延びたが、追っ手に捕捉されたので近臣が全員踏みとどまって討ち死にする間に、亀ヶ谷沢の普門庵(現在の藤枝市)に入って自害したという。享年20。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 『今川義元』吉川弘文館 2008年、47頁
  2. a b 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.73
  3. a b c 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.72

参考文献[編集]