池山重朗

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池山 重朗(いけやま じゅうろう、1931年7月1日 - 2007年12月8日)は、核問題評論家。元原水爆禁止日本国民会議(原水禁)事務局次長。本名は冨田和男[1]

経歴[編集]

茨城県鉾田町(現・鉾田市)生まれ。東京教育大学文学部卒業[1]。在学中に破防法反対運動で無期停学処分となり、原水爆禁止日本協議会(原水協)に勤務。原水協に入った直後、吉田嘉清の指名で1958年の第1回平和行進の実務を担当した[1][2]

勤務評定反対など原水禁運動とは関係ないスローガンに疑問を感じたため[2]、1960年に原水協を退職し、第1期構造改革論争に参加、『現代革命論争』を刊行[1]。その後、ソ連の核実験をめぐる社共の対立で抗議運動が停滞した原水協に失望し[3]、1965年に社会党総評系が原水協から分裂した原水爆禁止日本国民会議(原水禁)に参加、原水禁運動を再開した[1][4]。1971年にミクロネシア韓国の被爆者問題を提起[1]。池山の主導でミクロネシアに調査団が派遣され、日本で初めてビキニ水爆実験による被ばくの実態が明らかにされた[3]。また1970年以来、原子力発電所問題に取り組み[5]、反原発運動を原水禁の中心課題の一つにした。1975年の原子力資料情報室の設立に協力した[3]

1972年に原水禁事務局次長に就任。原水協とは共同の課題で共闘していくという連合統一論を展開し、原水協・吉田嘉清事務局長が展開する組織統一論を批判したが、1977年5月19日に原水禁・森滝市郎代表委員と原水協・草野信夫理事長が「年内をめどに統一」に合意した。2日前に池山の連合統一論を柱にした「統一テーゼ」を組織内で最終的に確認したばかりのことで、統一実行委員会の発足を決めた拡大世話人会への出席も拒否されたため、事務局次長を辞任した[2]。同年に社会市民連合に請われ[4]、7月10日投開票の第11回参議院議員通常選挙に全国区から出馬。2万6380票を獲得、102人中82位で落選した[6]

2007年12月18日に死去、享年76歳[3]

人物[編集]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『現代革命論争』 青木書店(叢書戦後資本主義の分析)、1961年
  • 『危機からの脱出――平和運動入門』 合同出版社(合同新書)、1963年
  • 『原爆・原発』 現代の理論社、1978年
  • 『核の冬』 技術と人間、1985年
  • 『原水禁運動の発生と展開――「原爆・原発」のない社会へ』 池山重朗著作集刊行委員会編集、先駆社、2011年
  • 『原爆・原発――核絶対否定の理論と運動』 明石書店、2012年

共著[編集]

  • 『講座現代の政治 第2 現代における国家と革命』 柴田高好津田道夫、森川英正、棚橋泰助直原弘道共著、合同出版社、1962年
  • 『講座現代の政治 第1 現代世界の構造』 西川一郎、玉井龍象、汐見太郎、柳沢英二郎、伏見淳、青野博昭共著、合同出版社、1962年

編書[編集]

  • 『核戦争3分前』 日本評論社、1984年

訳書[編集]

  • 『エンプティ・プロミス――SDI構想の破綻』 アメリカ憂慮する科学者連盟編、浜谷喜美子共訳、日本評論社、1987年

脚注[編集]

  1. a b c d e f 日外アソシエーツ編『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年、167頁
  2. a b c d 検証 ヒロシマ 1945~1995 <19> 原水禁運動の分裂② 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター(2013年3月1日)
  3. a b c d 池山重朗さん、関口和さんを偲ぶ 原水禁ニュース2008. 3
  4. a b 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年、282頁
  5. a b 吉川勇一「池山重朗」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、93頁
  6. 昭和52年7月10日執行(第11回) 加茂市
  7. 国富建治水爆禁止運動「分裂」の歴史がいま私たちに問うているもの」かけはし2011.11.28号
  8. 北岡和義『べらんめえ委員長――飛鳥田一雄の大いなる賭け』学陽書房、1978年、105頁
  9. 革命的共産主義者同盟全国委員会機関誌『共産主義者』第10号、前進社、1964年、50頁
  10. 上田耕一郎『マルクス主義と平和運動』大月書店、1965年、119頁
  11. 岸本健一『日本型社会民主主義』現代思潮社、1966年、20頁
  12. 塩田潮『江田三郎――早すぎた改革者』文藝春秋、1994年
  13. 『潮』第221~223号、潮出版社、1977年、188頁