浅沼稲次郎

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浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、明治31年(1898年12月27日 - 昭和35年(1960年10月12日)は、日本政治家。「人間機関車」と呼ばれる活動家である。

経歴[編集]

1898年(明治31年)12月27日、東京府三宅村(現東京都三宅村)に生まれる。三宅村立三宅小学校を卒業後、東京府立三中(現東京都立両国高等学校)に入学。1916年大正5年)、府立三中を卒業後、陸軍士官学校海軍兵学校の試験に合格できなかった[1]。9月、第2学期から編入試験を受けて、早稲田大学に入学した。反軍事研究団事件では反対運動で活躍し、事件後に右翼学生の縦横倶楽部員につかまって、その合宿所に一晩中監禁され、打つ、蹴る、殴る、などのリンチを受けた。

1925年(大正14年)12月1日、東京神田のキリスト教青年会館農民労働党の結党式を開催し、中央執行委員長欠員のもとに浅沼が書記長、細野三千雄が会計に選ばれた。3時間後に治安警察法により結社禁止、解散を言い渡された。

1929年(昭和4年)、日本大衆党から公認をうけて深川区から東京市会議員選挙に出て、初めての選挙は得票数1300で敗れた。

1933年(昭和8年)に東京市会議員選挙に立候補し、最高点で当選した。友人が酒の四斗樽を一本寄付したため選挙事務所に1000余名が集まり、大祝杯をあげた。1936年(昭和11年)には衆議院議員選挙に初当選。1942年(昭和17年)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)の立候補は辞退し、国政から一時離れた。都制施行とともに都会議員に当選し副議長になり、終戦を都会議員で迎えた。

1945年(昭和20年)、日本社会党の結成時に組織部長に就任した。当時の社会党は西尾末広水谷長三郎平野力三の三氏のいわゆる「社会党三人男」で運営されていた。

1946年(昭和21年)の総選挙で社会党は98名、22年の総選挙で143名を獲得し、第一党となった。1947年(昭和22年)、書記長の西尾末広片山哲内閣入閣すると書記長代理となり、翌年に正式に書記長となった。

1960年(昭和35年)、日本社会党委員長に就任。同年10月12日に日比谷公会堂で開催された自民党・社会党・民社党3党首立会演説会で浅沼は、演説中に右翼少年・山口二矢(当時17歳)に腹部を刺され暗殺された。全国で暴挙を非難する抗議集会や抗議デモがおこなわれ、集会に44万5000人、デモに37万人が参加した。

人物[編集]

  • 旧日本社会党本部のシンボルである浅沼稲次郎の胸像を軽量化し、移転後の千代田区永田町の社会民主党本部に2013年5月16日に再設置した。総重量約2トンを約500キロに軽量化したという[2]。その後、社会民主党本部は「東京都中央区湊3-18-17(マルキ榎本ビル 5階)」に移転した[3]
  • 故郷の三宅島の生家跡は公園として整備保存され、全身の銅像が建てられている(三宅村神着)[4][5]

参考文献[編集]

  1. 浅沼稲次郎(1957)『私の履歴書(第2集)』日本経済新聞社
  2. 社民党本部に旧党本部のシンボル、浅沼氏像を移転産経新聞、2013年5月16日
  3. ついに「都落ち」の社民党産経新聞、2017.3.20
  4. 三宅島観光協会
  5. 三宅島地図