加藤宣幸

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加藤 宣幸(かとう のぶゆき、1924年6月27日[1] - 2018年2月17日)は、政治活動家、出版人。1946年~1969年に日本社会党書記、1969年~1992年に新時代社社長を務めた。構造改革論を掲げた江田三郎の側近で、森永栄悦貴島正道とともに「構革三羽烏」「江田派三羽烏」と呼ばれた。

経歴[編集]

東京市生まれ。父親は加藤勘十。1941年東京府立電機工業学校卒業、芝浦マツダ工業に入社。府立高等工業学校2部機械科、東京工業大学燃料工学科を経て、1945年都立工業専門学校機械学科卒。1946年1月日本社会党本部書記局に入局、青年部、組織部。1951年~1954年世田谷区議、社会党世田谷支部書記長専従。1954年左派社会党に復職、地方議会部。1955年の社会党統一後、組織部副部長[1]、教育文化部部長[2]、機関紙部機関紙局経営局長を務めた[1]

社会党組織部副部長として党の機構改革に取り組んだ。党大会で機構改革が通った後は機関紙の有料化運動に取り組んだ[1]。教育文化部長であった時、初岡昌一郎を通じて社会党内に広まった佐藤昇の論文「現段階における民主主義」(『思想』1957年8月号)に感銘を受ける。同じく佐藤論文に感銘を受けた書記局の森永栄悦貴島正道らとともに「現代社会主義研究会」を立ち上げ、佐藤昇や松下圭一の指導を受けながら約1年間研究会を続ける。1960年頃、党内で構造改革論を推進した加藤、森永、貴島の3人は「構革三羽烏」と呼ばれ、機構改革を通して接近した江田三郎を担ぎ上げて江田派を形成した[2]

江田派が党内闘争に敗れたことから[3]、1969年に社会党本部を退職。出版社の株式会社新時代社を設立し、代表取締役に就任した[1]。1992年に新時代社代表取締役を退任した[1]。2004年3月にメールマガジン『オルタ』を創刊し、同代表となった[4]。2018年2月17日に満93歳で急逝した[5][6]

備考[編集]

  • 社会党本部を退職した年は「1968年」とするものと[4][7]、「1969年」とするものがある[1][8]
  • 新時代社社長を退任した年は「1991年」とするものと[4]、「1992年」とするものがある[1]
  • 「構造改革」という用語はイタリア共産党の「構造的諸改良の道」に由来するが、左派から改良主義だと攻撃されるのを恐れて加藤が造語したものだという[1]

著作[編集]

単著[編集]

  • 『メールマガジン「オルタ」編集後記集 1 (1-100号)』(オルタ出版室[オルタ叢書]、発売:新時代社、2012年)

分担執筆[編集]

  • 日本社会党中央党学校監修『構造改革の理論――社会主義への新しい道』(新時代社、1961年)
  • 岩根邦雄『生活クラブとともに――岩根邦雄半生譜』(新時代社、1979年)
  • 『江田三郎』刊行会編『江田三郎――そのロマンと追想』(『江田三郎』刊行会、1979年)
  • 北岡和義責任編集『政治家の人間力――江田三郎への手紙』(明石書店、2007年)
  • 五十嵐仁、木下真志、法政大学大原社会問題研究所編『日本社会党・総評の軌跡と内実――20人のオーラル・ヒストリー』(旬報社[法政大学大原社会問題研究所叢書]、2019年)

脚注[編集]

外部リンク[編集]