武田信繁 (甲斐武田氏)

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武田 信繁(たけだ のぶしげ、大永5年(1525年[1] - 永禄4年9月10日[1]1561年10月18日))は、戦国時代武将武田氏の一族。第18代当主・武田信虎の4男で武田信玄の同母弟。兄の信玄の副将として活躍し後世まで讃えられた名将の一人で、武田二十四将の一人に数えられる。川中島の戦いで奮戦したが討死した。

生涯[編集]

信虎の偏愛[編集]

武田信虎の4男[1]。母は大井夫人(瑞雲院殿)[1]。仮名は次郎[1]。官途は左馬助[1]。他の兄弟に武田竹松武田犬千代武田信基武田信廉松尾信是武田宗智河窪信実一条信龍ら。子に望月信頼信豊望月信永、娘(仁科盛信室)ら。正室は出自不明だが養周院日藤尊尼[1]。息子の信豊が同じ官途を名乗っているため、古典厩(こてんきゅう)と呼ばれる。

晴信(信玄)の同母弟で、『甲陽軍鑑』によると信虎は嫡子の晴信より信繁を愛したとされ、天文7年(1538年)1月1日の元旦の祝儀の席上で晴信に盃を与えず、信繁だけに与えた上、遂には廃嫡の意思まで露骨に示し出したという。

このため晴信も家督相続への危機感を強め、これが天文10年(1541年)の晴信やその重臣による信虎の駿河追放の契機となったとする説がある[2]

武田の副将[編集]

信繁は信虎追放の際も兄の信玄に協力するなど、その生涯を通じて兄の補佐役に徹した。このため信玄からの信任は厚く、信玄の代理として武田全軍の総大将を務める事もあった[1]

信玄の信濃平定に協力し、『高白斎記』によると天文20年(1551年)2月1日に武田信春の子・吉田成春を祖とする武田庶流の一族である吉田氏の名跡を継承している。

永禄元年(1558年)4月には嫡子の長老(信豊)に対して主家への奉公の心得などを説いた『異見九十九箇条』を与えているが、これは武田家の家訓としての分国法である『甲州法度之次第』を補足するものとしての性格を持った[1]

永禄4年(1561年)9月10日、第4回川中島の戦いにおいて奮戦したが戦死した[1]。享年37[1]。家督は嫡子の信豊が相続した。法名は宗誾院殿角山祖月大居士[1]

嫡子の信豊と正室の養周院日藤尊尼は天正10年(1582年)3月の織田信長による武田征伐下曾根信恒の裏切りに遭って自殺している[1]

人物像[編集]

山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと『甲陽軍鑑』にある。真田昌幸は次男に信繁と名づけている。大坂の陣で有名になる真田幸村のことであり、当時から名将として評価されていた事がわかる一例である。

江戸時代においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、江戸時代儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄の弟、古典厩信繁公なり」と『駿台雑話』で賞賛している。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.35
  2. 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.154

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6

武田信繁が登場する作品[編集]