武田信基

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武田 信基(たけだ のぶもと、? - 天正10年3月7日1582年3月30日?))は、戦国時代武将武田氏の一族。この信基に関しては不明な点が非常に多く、一説に武田 信友(たけだ のぶとも)ではないかとする説もある(穴山信友とは別人である)。

生涯[編集]

この信基に関しては非常に不明な点が多い。受領名は上野介であるが、この受領名を称した信虎の子女は信基と信友とされており[1]、しかも系図や軍記などで信基、信友(『甲乱記』)と分かれているのである。そのため改名した可能性はある[1]。ただ信基は早世したとされているのに対し[1]、信友は長命を保ったようであり、このあたりは史料の混乱が見られるのである。

信基は早世したとしかないため、信友の経歴を挙げる。『甲陽軍鑑』巻11による天文8年(1539年)に駿河で生まれたとされる。『甲陽軍鑑』によると子に武田信堯がおり天文23年(1554年)生まれとされているため、16歳の時に生まれた子とされる。

信虎の男子としては5男であり、母は側室の内藤氏とされる[2]。同母の兄弟姉妹に穴山信友の正室となった南松院殿がいる[2]。異母兄に武田信玄。仮名は六郎[2]。官途は左衛門佐(信堯との混同とする説あり)、左京亮、上野介[2]

天文10年(1541年)に信虎が晴信(信玄)によって駿河に追放された際、父の下にあったためそのまま今川義元の家臣となった[2]永禄11年(1568年)12月に信玄が駿河侵攻を行なうと今川氏真から離反して信玄に従った[2]。この時の官途は左京亮であったが、永禄12年(1569年)2月から上野介を称した[2]。なお、左京亮の官途は信虎の官途である左京大夫に類似しているため、駿河追放後の信虎の私的な後継者にされていた可能性がある[2]

元亀4年(1573年)4月に信玄が死去すると勝頼に従い、駿河田中城の城将に任命された[2]。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いの後に隠居する[2]

信長公記』によると天正10年(1582年)3月7日に織田信長武田征伐で信長の嫡子・信忠により甲府で処刑されたという。

正室は今川氏の一族である瀬名氏貞の娘で、子女に三浦員久室の娘、三条公仲室の娘、信堯らがいる[2]。三浦は駿河先方衆で信友は駿河との関係が非常に密接だったようである[2]

脚注[編集]

  1. a b c 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.36
  2. a b c d e f g h i j k l 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.37

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6