魏諷
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魏 諷(ぎ ふう、? - 219年)は、中国の後漢末期の政治家。字は子京(しけい)[1]。
生涯[編集]
徐州沛国か兗州済陰郡の出身[1]。名声があり、鍾繇の推挙を受けて曹操に仕えた[1]。西曹掾に任命され、官吏として有能で多くの高官が交際したが、劉曄や傅巽からはいずれ謀反を起こすと予言されていたという[1]。
219年、曹操がまだ劉備との戦いなどで帰還していない隙をついて長楽校尉の陳禕と謀って反乱を画策したが、陳禕が反乱失敗を恐れて怖気づいて曹丕に密告したため、魏諷は捕らわれて処刑され、共謀の連座で多くの家臣も処刑され、鍾繇は免職となるなど影響は広がった[1]。
『三国志演義』には登場しない。