陳羣

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

陳 羣(ちん ぐん、? - 235年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家長文(ちょうぶん)[1][2]。祖父は陳寔[1]。父は陳紀[1]。叔父は陳諶[1]。子は陳泰。妻は荀氏(荀彧の娘)。魏の法制度の整備に従事し、曹操文帝明帝の3代にわたって重臣として重きを成した。陳羣が建白した九品官人法科挙が本格的に施行されるまで各王朝の人材登用の基本方式となった。劉備に仕えていた時期もある。

生涯[編集]

豫州潁川郡許昌県(現在の河南省許昌)の出身[1]。陳羣の一族は祖父、父、叔父と後漢を代表する名士であり、陳羣は子供の頃から才能があり、孔融からも一目置かれたという[1]。劉備が豫洲刺史の頃に招聘されて別駕となる[1]194年陶謙が死去して劉備が後任の徐州刺史に任命された際、陳羣は徐州の周辺に袁術呂布がいることから就任に反対したが聞き入れられなかった[1]。結果的に劉備は呂布に徐州を奪われ、陳羣の諫言を聞き入れなかったことを後悔したという[1]

198年に呂布が滅亡すると曹操に招聘されて司空西曹掾に任命され、さらに御史中丞になる[1][2]。曹操が魏王になった際に削ぎや斬りなどの肉刑を復活させようとすると、陳羣は懸命に反対して中止させた[1][2]。曹操の息子・曹丕とは王太子時代から親密な関係にあり、曹丕から「私の顔回[3]」とまで言われるほどの高い評価を受けた[1]。さらに司馬懿・呉質朱鑠とともに太子四友になった[2]。曹丕が文帝として魏王朝を創設して皇帝に即位すると、陳羣は文帝に九品官人法を建議して成立させた[1]226年に文帝が崩御する際には司馬懿曹真曹休らと共に曹叡の補佐を託された[1]。明帝の時代においても国政を総攬し、との戦いで活躍して侍中尚書令鎮東大将軍・司空にまで昇進した[1][2]

陳羣は人を見る目や公正な判断力に優れ、道義を重んじる性格だったという[1]。235年に死去し[1]、跡を子の陳泰が継いだ。諡号は靖侯[1][2]

三国志演義』では第57回で劉備が益州に侵攻する事を計画した際に治書侍御史として曹操に孫権を攻めるように献策する参謀として初登場する[1]。後に曹操に皇位に即位するように勧めたり、曹丕に対して禅譲するように献帝に迫ったりするなどかなり悪辣な人物として描かれている。そのためか劉備の家臣だったころの過去には触れられていない[1]。史実より延命され、238年公孫淵の反乱鎮圧の第106回まで登場している[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 小出『三国志武将事典』P360
  2. a b c d e f 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、276頁
  3. 顔回は孔子の一番弟子である。

参考文献[編集]