楊俊 (魏)

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楊 俊(よう しゅん、? - 222年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将政治家季才(きさい)[1][2]。子の名は不明。孫は楊覧楊猗

生涯[編集]

司隸河内郡獲嘉県の出身[2]。若い頃に辺譲に師事した[2]曹操に仕えてからは安陵令[1]、曲梁の長に任命され、司馬懿司馬芝王象らの才能を見出していずれも曹操に推挙した[2]。魏が藩国として成立すると中尉に昇進されるが、219年魏諷の反乱で連座して平原郡太守左遷される[2]220年に魏が建国されて曹丕が文帝として即位すると、王象に推挙されて南陽郡の太守として復帰する[2]。しかし楊俊はかつて曹丕と曹植が後継者争いを演じた際に曹植を支持していたことを文帝に恨まれており、222年にでっち上げの罪(部下の官僚の過失[1])を着せられて逮捕される[2]。この際、楊俊の推挙で世に出た司馬懿や王象らは楊俊を救うために文帝に叩頭して助命を願い出るも文帝は許さず、楊俊は罪をわきまえて自殺したという[2]

人物評価の名手で道義を重視する行政官として高く評価されていたという[1]

三国志演義』には登場しない[2]

脚注[編集]

  1. a b c d 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、349頁
  2. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P221

参考文献[編集]