黄初五年の対呉遠征

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黄初五年の対呉遠征(こうしょごねんのたいごえんせい)とは、中国三国時代黄初5年、すなわち224年に行なわれた魏の文帝によるへの親征。

経歴[編集]

背景[編集]

219年孫権曹操と結んで関羽を討った。このため劉備の報復を受ける事になり、この際に代替わりした魏の文帝からも攻撃を受ける事を恐れた孫権は文帝に対して臣従を申し入れ、文帝はそれを受け入れて孫権を呉王に封じた。222年夷陵の戦いで孫権は劉備に大勝する。しかし文帝から嫡子である孫登を人質に出すよう要求されたため、孫権はこれを拒絶して魏と敵対。文帝は洞口に曹休張遼らを、江陵に曹真夏侯尚らを、濡須に曹仁らを派遣して攻撃した(洞口・江陵・濡須の戦い)。この戦いは呂範諸葛瑾朱桓徐盛らの活躍で魏軍は各方面で撃退された。

223年、蜀では劉備が崩御して若い皇太子である劉禅が継ぎ、国家の大権は丞相諸葛亮に委ねられた。その諸葛亮は魏と対抗するためには呉との修好が必要と考え、鄧芝を使者として派遣し、孫権を説得して魏と断絶させ、蜀呉同盟が締結された。

これを知った文帝は激怒し、224年8月に10万の大軍を率いて呉を攻めるべく親征を開始した。

魏軍撤退[編集]

文帝は親征にあたり、呉討伐の前線基地である許昌司馬懿を置いて固めた。そして9月、寿春(現在の安徽省寿県)を経て広陵(現在の江蘇省揚州)に出た。ここから長江を隔てた南岸に呉の重要な拠点である建業がある。当時の呉の首都は長江中流域の武昌(現在の湖北省卾城)であったが、後に首都にしているのを見てもわかるように大変重要な拠点であったことに変わりはない。

孫権軍の武将・徐盛は文帝の親征を知ると孫権に疑城の計を献策した。建業から江乗までの約30キロの長江南岸に木材で骨組を作るなどして偽の城壁を造った。さらに偽の城壁と察知される事を恐れて長江上に軍船を浮かべて魏の偵察船が近づけないようにした。このため文帝ら魏軍は遠望して城壁を眺めるしかなく、それを見て驚いたという。文帝は「呉には人物がいるのですぐに攻め取る事は不可能」と述べたとも「魏には武装した騎兵の部隊が千もあるが、これではそれを用いるところがない」とも嘆息して述べたと伝わっている[1]。そして文帝は空しく撤退した。

この戦いの後、孫権は信任する占い師の趙達を読んで呉の命運を占わせたという。趙達は「呉は庚子の年に滅亡する」と述べた。孫権が「何年後の庚子か」と尋ねると「58年後」と答えたという。孫権は「今の事を心配するだけで手一杯で、遠い先の事など考える余裕はない。わしの息子らが心配する事だ」と述べたという。ちなみに58年後は282年で、史実の呉滅亡と2年の誤差しかなく、これが事実なら趙達は相当な占い師だったようである。

三国志演義』ではこの黄初5年と翌年の親征が組み合わされて一つの遠征にされている。文帝は呉を攻めて史実通り徐盛の計略にかかって撤退。しかし撤退途上で孫韶の奇襲を受けて大損害を被る。さらに態勢を立て直したところで丁奉の攻撃を受け、ここでさらに大損害を被った上、丁奉の放った矢で張遼が戦死し、かつての赤壁の戦いに匹敵する大敗だったとされている。

脚注[編集]

  1. 魏氏春秋』より

参考文献[編集]