旧制高等学校

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高等学校 > 旧制高等学校

この記事では旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)について解説する。

概要[編集]

1872年学制により、小学校中学校実業学校専門学校大学が設立された。小学校を卒業した者は中学校に進学し、中学校を卒業した者は三年制の「高等中学校」に進学し、そこを卒業すると大学に進学した。「実業学校」に対する「高等実業学校」があるのと同様のことである。やがて、高等学校令の発布により高等中学校は中学校から独立し、新たに「高等学校」と名称を変更した。

高等学校は高等学校令第一条に「男子ニ対スル普通教育」と記されているとおり男子のための学校であり、1945年まで女子に門戸は開かれていなかった[注 1]。当初は官立のみであり、医学科や工科といった普通教育を行わない学科も設けられたが、普通教育を行う高等科(当初の名称は大学予科)以外は廃れて、専門学校に転換し、9番目以降に設置された地名高校[注 2]以降は高等科のみの設置が殆どとなった。
大正期以降には、公立[注 3]、私立[注 4]も認められた。この他に高等学校に類似する教育機関としてほとんどの私立大学と北海道台北京城の各帝大が有していた大学予科がある。これは高等学校とほぼ同じ教育内容だったが、その大学への入学が原則であり、帝国大学への入学は定員割れがないと入学試験を受験しなければならなかった。
高等学校の定員と帝国大学の定員はほぼ同じだったため、高等学校の卒業生は進学先さえ選ばなければ無条件で帝国大学に進学できた[注 5]。このため日本各地に十代後半から二十歳の知的エリートをとどまらせることができ、地方文化の向上に大いに貢献した。

制度[編集]

1918年の改正高等学校令以降、高等学校は本科である高等科のほかに、尋常小学校4年終了時に入学する2年制の予科、4年制の尋常科、得業士の称号が得られる1年制の専攻科を置くこととされたが、予科と専攻科[注 6]は設置されなかった。
尋常科は尋常小学校を卒業した者が入学する4年制で、これは中学校を4年で修了したものと同等とされた。しかし、公立と私立は尋常科を置いたが、官立は東京高校を除いて、ほとんど置かれず、尋常科を置くことを原則とした制度から乖離した姿だった。高等学校の入学試験は難易度が高く、浪人生も多く出た。生徒の出身校は尋常科や中学校の他、実業学校高等学校入学資格検定合格者、専門学校入学資格検定合格者もいたが、数は少なかった。

生徒は将来の進路を考えて文科理科に分かれるが、いずれも外国語を重視し、英語ドイツ語フランス語のいずれかを第一外国語に学んだ[注 7]。生徒の生活は独特の文化を持ち、寮生活、インターハイ高専柔道のほか、様々な言葉や思想を生んだ。旧制高校は1940年(昭和15年)に関東州に設置された官立旅順高等学校でひとまず打ち止めとなった。

太平洋戦争開戦後、1943年(昭和18年)の学制改革により修学期間が2年に短縮され、繰り上げ卒業が実施された。徴兵年齢も19歳に引き下げられ、さらに、1944年(昭和19年)、理工系と教員養成系を除く学生、生徒の徴兵猶予が停止され[注 8]、大学生、高校生、専門学校生がペンを銃に代えて戦地に赴いた。学徒出陣である。既に戦局は悪化し、下級指揮官が不足する状況であった。幹部候補生に志願し、特別攻撃隊となって南の空に散った者も多い。入営しても古参兵から煙たがられることが多かった。多くの高校生が在校中に戦死した。

戦後直後[編集]

太平洋戦争敗戦後、1946年に高等科の修学期間が3年制に戻った。高等学校令第一条が改正され、女子の入学も可能になった。さらに、一部の医学専門学校が施設の不備によりGHQより廃校指令が出て、これらの校舎と組織を転用して医専の在学生を受け入れる戦後設置の旧制高等学校(特設高校)が1947年に登場。特設高校には戦前になかった女子高等学校も存在した。
しかし、これらの旧制高等学校も高等教育大学一本化を方針とした学制改革で学校廃止の方針が出され、旧制学校の校長会はアメリカに存在したジュニアカレッジ(現在の短期大学相当)に倣った学校存続を求めたが叶わなかった。
1948年に新制高校が発足したが、旧制高校も最後の入学者募集を実施し、新旧両制度の高校生がこの年に限り共存した。

終焉[編集]

1949年に学制改革が行われて旧制高校は新制大学文理学部教養部に移行。さらに、官立高等学校は、国立総合大学(戦前の帝国大学)、国立単科大学専門学校師範学校と合併して国立大学の一部となり、在学生のうち高等科1年生は後身の新制大学に編入もしくは別大学に再入学して学籍を離れたため、1950年3月の在校生徒の卒業をもって廃校となった。
なお、医学部歯学部は改革直後に新制学部が発足せず、大学教養教育で2年間所定単位を修得してからの入学対象となったため、旧制高校の後身大学に医学進学課程や理学部乙などの名称の2年制プレメディカルコースが設けられた。

廃校後[編集]

「高等学校」の名称は旧制中等学校を母体とする後期中等教育を受け持つ新制学校に使われることになり、7年制高等学校にあった尋常科も新制高等学校中学校に転換して、大阪大に併合した旧制浪速高等学校[注 9]や新制都立大附属高校のみになった旧制都立高校を除き、新制の東大高進学実績中高一貫校に活路を見出した武蔵高校尋常科を前身とする武蔵中学・高等学校や、旧制東京高校の跡地と尋常科の系譜を継承した東京大学附属中等教育学校のように中高一貫の後身校が現存している。
旧制高校の校地は、新制大学発足直後は新制大学の文理学部や教養分校の校地となったが、その後のキャンパス統合の過程で移転して、附属学校と換地したり、県市に売却され公立学校用地や記念公園となったりして、国立大学で旧制高校の用地が継承されているのは東京大学京都大学大阪大学島根大学など少ない。
旧制高校廃校後も、旧制高校の制度を懐かしむ出身者によって「日本寮歌祭」が開催され、現在に至っている。

廃校の考察[編集]

旧制高等学校が廃校となったのはGHQの意向という意見があるが、むしろ、私立の大学・旧制専門学校の関係者が虎の威を借る狐の如くGHQを動かして、戦前の旧制私立高校の設置抑制[注 10]官尊民卑で辛酸を舐めた状況の解消を狙ったという意見も多い。そうでもないと戦後に7校もの旧制高校が誕生するはずもない。
他の旧制学校が曲がりなりにも現在も続き、旧制学校の同窓会が継続していたり、旧制高等工業学校復活を望む財界の要望で高等専門学校の制度ができた一方、戦後直後の大学学部で医学部進学コースや理学部乙などの名称で生じた2年制医歯学部対応課程を短期大学に改組して旧制高校を事実上復活する構想はボツになってしまった[注 11]
大学での教養教育も軽視されて、大学設置基準の大綱化後、国立大学は東京大学北海道大学を除いて教養部自体も解体され、旧制高等学校の伝統はほぼ消えて埋没してしまった。

旧制高等学校の生徒が登場する作品[編集]

  • 川端康成『伊豆の踊り子』
  • 井上靖『北の海』
  • 早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』

関連項目[編集]

参考文献[編集]

[編集]

  1. ただし、高等女学校高等科は2年制で、高等学校と同等の組織とみなされた。
  2. 1919年に第九〜第十二相当の高等学校が松本、新潟、山口(実質再興)、松山に設置された。
  3. 富山県立富山高等学校 (旧制)1943年に官立移管。
  4. 学習院高等科は高等学校と同様な学校とみなされた。
  5. 東京帝大航空学科のような希少学科目指しの高校既卒の浪人生は存在した。
  6. そのため、得業士の称号は旧制高校高等科+専攻科と同等の修業年限となる医学専門学校卒業者に授与される称号に変化した。
  7. 第一外国語毎に甲(英語)、乙(独語)、丙(仏語)の各類があったが、丙類が置かれた高校は少なかった。
  8. 中学生は22歳まで、高校生は23歳まで、大学生は26歳まで徴兵猶予されていた。仮に徴兵猶予の後に徴兵検査を受けても軍としては年上のエリートが入営することを好まず、実際は徴兵されることはなかった。
  9. 旧制府立浪高は、旧制官立大阪工専や官立大阪青年師範が府立浪速大学に統合される代償として阪大に統合した。
  10. 官立大学教育機関の資質保障から、私立の旧制高校設置には国庫への多額の供託金が必要で、旧制高校設置を断念した法人もあった。
  11. 青少年に職業教育と軍事教練を施した青年学校はさらに悲惨で、後継となる学校もなく、校舎と教員以外は完全に歴史の彼方に忘れ去られた。