台北帝国大学

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台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は旧帝大のひとつ。大学の略称は台大(たいだい)である。当時の名称は「臺北帝國大學」であった。

概要[編集]

日本の統治時代の1928年3月16日勅令第30号に基づき台湾の台北市に7番目の帝国大学として設立された[1]。初代学長は大阪出身の幣原坦[注釈 1]であった。 内地の帝国大学は文部省管轄であったが、台北帝国大学は台湾総督府の管轄であった(京城帝国大学も同様)。

台湾に文学や理学など抽象的な学問より実学を重視すべしの声もあったが、総合大学の体裁を整えるため、政学部農学部の2学部および大学予科と附属図書館を設置した。
文政学部は哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科とし、哲学科は東洋哲学、西洋哲学、倫理学、心理学、教育学の五専攻とし、史学科は国史学、東洋史学、南洋史学の三専攻、文学科は国語学・国文学、東洋文学、政学科は専攻による分科はない(勅令第33号)。試験に合格すれば文学士、法学士の称号を得る。理農学部は生物学科、化学科、農学科、農芸化学科(第一類(植物学)・第二類(動物学)・第三類(地質学・古生物学)の各講座で構成した。学士試験は論文試験で合格すれば理学士、農学士の称号を得る[2]

1936年1月1日に医学部を設置した。

1945年11月15日に中華民国が接収し、国立台湾大学(National Taiwan University;國立臺灣大學)と改称し、現在も存続する。日本人教員は、接収に合わせて台湾から内地に引き揚げ、一部が受け皿として新設された私立の愛知大学に転出した。

大学の風景[編集]

『帝国大学案内 昭和13年度版』にわが国最南端の帝国大学と紹介された[2]教授助教授の約150名に対してほぼ同数の学生であり、他の帝国大学には見られない贅沢さと言われた。構内に野球場テニスコート、バレーボール、バスケット場があった。理農学部の学生は女性事務員と正門正面の木陰で湯を飲み、また8銭のバスで市内栄町の明治製菓コーヒーを飲んでいたという。

脚注[編集]

注釈
出典
  1. 臺北帝國大學ニ關スル件昭和3年勅令第30号
  2. a b 帝国大学新聞社編(1937)『帝国大学案内 昭和13年度版』帝国大学新聞社