与謝野晶子
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与謝野 晶子(よさの あきこ、明治11年(1878年)12月7日 - 昭和17年(1942年)5月25日)は、日本の歌人・作家・思想家。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。日露戦争を題材にした『君死にたまふことなかれ』で有名である。
生涯[編集]
大阪府堺市甲斐町の菓子屋である駿河屋の鳳家の3女として生まれ、堺女学校を卒業する[1]。その後は家業を助ける一方で古典や現代文学を独学や自習で身につけ、特に『源氏物語』を対象に勉学に励んだ[1]。
明治33年(1900年)8月、初めて短歌を『よしあし草』に発表し、この時に鳳晶子の名を用いている[1]。さらに新詩社の同人となり、秋に初めて与謝野鉄幹(与謝野寛)と知己を得、この時に鉄幹の芸術と人間性に傾倒したという[1]。明治34年(1901年)に第1歌集の『みだれ髪』を上梓する。明治37年(1904年)に単身で上京し、与謝野鉄幹と結婚する[1]。この年から日露戦争が始まり、晶子の弟が戦場に出征する。同年9月、旅順包囲軍の決死隊に志願した弟に向けて、長詩「君死にたまふことなかれ」を『明星』誌上に発表した[1]。
大正10年(1921年)に西村伊作や鉄幹と共に文化学院を創設すると晶子はその学監となり、11月に第2期『明星』を再刊する[1]。さらに正宗敦夫や鉄幹らと『日本古典全集』を刊行し、昭和6年(1931年)までに1期50冊を完成させた[1]。
昭和10年(1935年)3月26日に夫と死別し、晶子は昭和17年(1942年)5月25日に脳溢血が原因で死去した[2]。享年65[2]。遺体は東京都多磨墓地に埋葬された[2]。