東郷平八郎

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東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日1848年1月27日) - 昭和9年(1934年5月30日)は、日本の薩摩藩士、海軍軍人。元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊司令長官として日本海海戦を完勝に導いた。従一位大勲位功一級侯爵

経歴[編集]

江戸時代から明治時代[編集]

1848年1月27日(弘化4年12月22日)、薩摩の鹿児島下加治屋町(現在の鹿児島市)で薩摩藩士・東郷実友堀与三左衛門の3女・益子の4男として生まれる[1][2]西郷隆盛と同郷である。幼名は実良、通称は仲五郎、元服して平八郎と称した[2]

文久3年(1863年)の薩英戦争に父、兄2人とともに参戦した。このときの戦いで「海より来る敵は海において防ぐべし」という心理を会得したという[2]。慶応3年(1867年)に薩摩藩に海運局が設置されると直ちに入局する[2]。慶応4年(1868年)、戊辰戦争では阿波沖海戦、宮古港海戦、箱館海戦に三等砲術士官として春日丸に乗船し、従軍した。

明治4年(1871年)10月にイギリス留学を命じられ、明治8年(1875年3月にイギリスの帆船に乗りテームス河口を出帆し、7か月を経て世界を一周する快挙を行なった[2]。明治11年(1878年)に日本に軍艦建造を依頼し、完成した軍艦比叡に搭乗して横浜港に帰着し、7年間におよぶ留学を終了した[2]

明治12年(1880年)に海軍少佐となり、明治21年(1888年)には海軍大佐に昇進して軍艦比叡軍艦浅間の艦長に就任する[2]

明治27年(1894年)の日清戦争では軍艦浪速の艦長として出征し、吉野や秋津島などの僚艦と共にの海軍を破って多くの武勲を立てる[2]。この際に清の提督・丁汝昌の戦功を讃えてその死を悼んだ美談が逸話として知られている[2]

明治29年(1896年)に海軍大学校長に任命され、多くの青年士官の育成に当たる[2]。明治31年(1898年)には海軍中将に昇進する[2][3]。明治36年(1903年12月28日に当時の海軍大臣であった山本権兵衛日露戦争の直前に東郷を第一艦隊兼連合艦隊司令長官に指名したが、明治天皇がその理由を聞くと、東郷は運のよい男ですからと山本は答えたという。また山本は「これで皇国の海軍は万々歳である」と語ったという[3]

明治37年(1904年2月、日露戦争が起こると東郷の艦隊は旅順口のロシア艦隊を撃破し、明治38年(1905年5月27日にロシアの誇るバルチック艦隊日本海海戦において迎え撃って大勝した[3]。この際に「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との信号機を掲げて全軍を激励し、世界戦史でも稀に見る大勝利を収めた[3]。この戦功により伯爵に叙せられた[3]。また、この大勝でイギリスの伝説的な提督であるホレーショ・ネルソンにちなんで「東洋のネルソン」と呼ばれるようになった[3]

大正時代から昭和時代[編集]

大正2年(1913年)に元帥府に列せられ、元帥の称号を与えられる[3]。大正3年(1914年)に東宮学問所総裁に任命され、若き昭和天皇の養育係を務めた[3]。学問所総裁を7年間務めた後は悠々自適の生活を送る[3]

しかし、東郷の絶大な権威は海軍の派閥争いに利用されるようになった。1920年代、日本海軍内で艦隊派と条約派の争いが激化すると、東郷は前者に担ぎ出された。皇族の伏見宮博恭王が艦隊派だったこともあり、日本は海軍増強に力を入れる。この結果、軍拡競争に歯止めがかからなくなり太平洋戦争へと繋がったいく。また、東郷は「訓練が大事」と主張したのだが、これが悪化して精神論へとつながってしまうのである。

昭和9年(1934年)5月30日、咽頭癌により死去した[3]。86歳没。死後、従一位に叙せられ、6月5日国葬の礼をもって沿道や葬儀場に計170万人が東郷を見送り、多磨墓地に葬られた[4]。また、アメリカフランス中華民国などの各国の軍艦が横浜港に回航して弔意を表した[4]

記念施設[編集]

神社[編集]

東郷平八郎は軍神とされたため、死後に東郷平八郎を祭神とする神社が複数生まれた。

公園[編集]

関連する公園として次の5か所がある。

登録文化財[編集]

参考文献[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

  1. 東郷平八郎
  2. a b c d e f g h i j k 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、191頁
  3. a b c d e f g h i j 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、192頁
  4. a b 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、193頁
  5. 東郷神社
  6. 東郷元帥記念公園千代田区観光協会