御三卿

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御三卿(ごさんきょう)とは、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の分家のことで、田安徳川家一橋徳川家清水徳川家の3家のことを指す。

概要[編集]

江戸幕府の創始者である徳川家康は、宗家すなわち徳川将軍家の血統が断絶した場合に備えて、徳川御三家を創設していた。そのため、享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が夭折して宗家の血統が断絶すると、御三家の紀伊徳川家から徳川吉宗が第8代将軍に迎えられることになった。

吉宗自身も庶出で一旦越前国の大名に列せられて分家しながら、長兄や次兄から紀伊徳川家を相続したように、この頃になると、御三家でも直系の血統が続かない事態が相次いで、分家や支藩から養子を迎えて藩主を繋ぐ事態が続いていた。このような事態を見た吉宗は、恐らくは自分の血統を徳川将軍家に永続させることも狙って、新たに御三卿を創設した。

吉宗が創設した御三卿とは、以下の2つである。

  • 田安徳川家 - 吉宗の次男・徳川宗武が初代田安家当主。享保14年(1729年)に賄料3万俵、延享3年(1746年)に10万石。
  • 一橋徳川家 - 吉宗の4男・徳川宗尹が初代一橋家当主。元文2年(1737年)に賄料2万俵。延享3年(1746年)に10万石。

宗武は江戸城田安門内に、宗尹は江戸城一橋門内にそれぞれ屋敷を賜ったことから、それぞれそれを屋号とした。なお、当時はこの2家は御両卿(ごりょうきょう)と言われた。

吉宗の死後、第9代将軍となった徳川家重は、自分の次男の徳川重好を宗武、宗尹と同じように扱った。

重好は江戸城清水門内に屋敷を賜り、それを屋号とした。こうして、御三卿が成立した。

御三卿は独立大名家ではないので、立場上は徳川御三家の下位に置かれていた。御三卿の極位極官は共に「従三位中納言」であり、御三家の尾張徳川家や紀伊徳川家の「従二位大納言」とは明らかに差がつけられていた(ただし水戸徳川家とは同等である)。

こうして創始された御三卿であるが、早々に嫡系が断絶したり、付家老や幕閣の思惑で傍系が他大名家を相続したりして「当主不在の『空屋形』」になったりして、断絶に備えて創設された家のほうが断絶するという異常事態になるケースが少なくなかった。三卿共にその家は幕末まで当主を初代の直系で繋ぐことはできず、養子で常に供給している状態であった。

なお、御三卿から将軍に就任した人物に、一橋徳川家の徳川家斉(第11代将軍)、徳川慶喜(第15代将軍)がおり、14代家茂の父も清水徳川家から紀伊家を相続した人物だった。なお徳川慶喜は、父の水戸藩主徳川斉昭の考えで、将来の将軍候補とするために一橋家の養子にされたと言われている。また、幕末の重要人物である福井藩主松平慶永も、御三卿田安家の出身である。

大政奉還後、田安、一橋両徳川家は維新立藩して独立大名となり、廃藩置県後はそれぞれ伯爵が授けられた。清水徳川家は維新立藩は叶わず、後に男爵が授けられた。

系譜[編集]

徳川吉宗の血筋からの将軍家(宗家)および御三卿当主(戦前まで)

徳川吉宗
紀州家5代
8代将軍
家重
9代将軍
宗武
田安家初代
宗尹
一橋家初代
家治
10代将軍
重好
清水家初代
治察
田安家2代
治済
一橋家2代
家基
家斉
11代将軍
斉匡
田安家3代
斉敦
一橋家3代
家慶
12代将軍
敦之助
清水家2代
斉順
清水家3代
紀州家11代
斉明
清水家4代
斉荘
田安家4代
尾張家12代
斉彊
清水家5代
紀州家12代
斉位
一橋家5代
慶寿
一橋家7代
慶頼
田安家5/8代
斉礼
一橋家4代
家定
13代将軍
慶昌
一橋家6代
家茂
紀州家13代
14代将軍
昌丸
一橋家8代
寿千代
田安家6代
家達
田安家7代
宗家16代
達孝
田安家9代
家正
宗家17代
達成
田安家10代

水戸家の血筋からの将軍家(宗家)および一橋家・清水家当主(戦前まで)

徳川治保
水戸家6代
治紀
水戸家7代
松平義和
高須家9代
斉昭
水戸家9代
松平義建
高須家10代
慶篤
水戸家10代
慶喜
一橋家9代
15代将軍
慶喜家初代
昭武
清水家6代
水戸家11代
茂栄
高須家11代
尾張家15代
一橋家10代
篤敬
水戸家12代
篤守
清水家7代

宗家分家初代
慶久
慶喜家2代

慶喜家分家初代
武定
松戸家初代
達道
一橋家11代
圀順
水戸家13代
宗敬
一橋家12代
好敏
清水家8代

関連項目[編集]

外部リンク[編集]