徳川治済

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徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり、宝暦元年11月6日1751年12月23日) - 文政10年2月20日1827年3月17日))は、江戸時代御三卿の一つである一橋徳川家の第2代当主。第8代将軍徳川吉宗の孫で、第11代将軍・徳川家斉の実父に当たる。

生涯[編集]

一橋徳川家の初代当主であった徳川宗尹の4男で、徳川吉宗の孫。母は側室遊歌(細田氏)。4男であるため、本来は家督を継承できる立場には無かったが、兄の松平重昌松平重富らが他家に養子に出て、もう1人の兄も夭折したため、治済が明和元年(1764年)の父の死後、家督を継承して第2代当主に就任した。諱の「治」は徳川家治からの偏諱である。

治済は非常に頭が切れた人物で、若い頃から領地の治世についてや家臣の教育、職務について熱心に学んだという。御三卿の当主とはそもそも将軍に子供がいない場合のスペア的存在でほとんど飾りに近かったから、これは異例といってよい。家治の下で田沼意次が実権を握ると、治済は意次に同調。意次の弟・意誠を一橋家の家老に補して幕政に深く関与した。自身や息子・家斉のライバルになりかねない田安徳川家松平定信を他家に養子に送る画策をしたりしたのも、この治済によるものといわれている。また、家治には嫡子家基がいたが、この家基が後に鷹狩の最中に不審な急死を遂げているのも、一説に治済が家基を暗殺したのではないかと疑われているほどである。嫡子を失った家治は、新たな養子として治済の子・家斉を迎えている。

家治が重病に倒れて田沼の権勢に陰りが見え始めると、治済は意次を見限って反田沼派に加担し、意次の失脚に関与した[注釈 1]。そして家斉が第11代将軍になると、治済は将軍の実父としての地位を手に入れ、幕政に深く大きく関与するようになった。ただ自身が非難されるのを避けるためか、家斉の後見人に自身がならずに反田沼派の中心人物であった松平定信を就任させ、その見返りに5男の斉匡を田安徳川家の当主にすることを定信に認めさせている。その後しばらくは定信による寛政の改革が行なわれるが、尊号一件で家斉が治済に対して大御所の尊号を与えようとしたことに定信が反対すると、治済は家斉と共に定信と対立し、寛政の改革で既に信望を失っていた定信の老中職を罷免させた。

その後の大御所政治では、将軍実父として治済が深く関与して事実上の最高権力者となった。一橋徳川家の当主の座は寛政11年(1799年)に6男の斉敦に譲っているが、隠居したわけではなく幕政、並びに一橋徳川家の家政をなおも仕切っている。斉敦が文化13年(1816年)に早世すると、孫の斉礼に第4代当主の座を継がせて、なおも実権を握った。

文政10年(1827年)2月20日に死去。享年77。

人物像[編集]

治済は「陰の実力者」いわゆる「フィクサー」としてこの時代の漫画小説時代劇などで登場することが多い。裏工作を好み、自身は決して表舞台に立たない切れ者として描かれている。息子の家斉も父親をそのように見ていたのか、父が暗殺したと思っていた家基の仏事には特に丁重に行なっている。

その他[編集]

  • 松平定信を久松松平家に養子を出した後の田安家当主には治済の五男の斉匡清水家当主も治済の孫(家斉の五男)の敦之助が就き、将軍家だけでなく、御三卿当主も治済の子孫が独占した。また、福井藩の越前松平家も治済の兄2人に次いで甥が相続して、一橋家の血筋の大名家となった。
  • 一方、当の一橋家は、早々に治済の血統が絶え、清水家も紀州藩藩主に転じたため、田安家のみが幕末まで治済の男系で継承された。大政奉還後、田安家出身で治済の子孫の徳川家達が宗家を継いでいる。
  • 治済は、島津重豪(薩摩藩主で家斉正室の父)、中野清茂(家斉愛妾の父)と共に、豪奢な暮らしをした三翁と目された。

関連作品[編集]

漫画[編集]

小説[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

同時代の御三家・御三卿[編集]

脚注[編集]

注釈
  1. この際、父から一橋家家老を継いだ意次の甥の意致とも一時義絶したが、後に再登用している。


先代:
徳川宗尹
一橋徳川家当主
2代:1764年 - 1827年
次代:
徳川斉敦