徳川家基
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徳川 家基(とくがわ いえもと、宝暦12年10月25日(1762年12月10日) - 安永8年2月24日(1779年4月10日))は、江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男。将来の第11代将軍として期待されていたが、夭折した。徳川宗家の歴史の中で唯一「家」の通字を授けられながらも将軍位に就けなかったため、「幻の第11代将軍」とも呼ばれる。
生涯[編集]
第10代将軍・徳川家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方との間に生まれる。生後まもなく大奥女中の広橋の願いもあり、男子のいなかった家治の正室・倫子の養子となって成長した。幼年期より聡明で文武両道の才能を見せる。成長するにつれ政治にも関心を持ち参画する姿勢を表し、老中・田沼意次の政治を批判するなど、将来を嘱望された。
18歳の時である安永8年(1779年)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で、突然体の不調を訴え、翌日から祈祷、治療、そして重臣らの見舞いを受けるが、わずか3日後に死去した。享年18(満16歳没)。家基の死により、江戸では普請が14日、鳴物が21日停止を命じられた。
その死を聞いた父・家治は、自らの跡継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんで幕政への関心を失った。家基の死により、父・家治の子で存命の者はなくなり、家治はそれ以後、死去するまで子を儲けることはなかったため、家治の血筋は断絶することとなった。
家治は家基が死んだとき、それを慰めようとした重臣に対して「天下の政治を譲る子供を亡くして、不時の事態が起これば、天下の人民はどうなるのかと嘆いているのだ」と答えたという(『翁草』)。
死因についての諸説[編集]
家基の死は余りに突然だったことから、毒殺説が疑われている。
- 家基の将軍就任によって失脚することを恐れた田沼意次による毒殺説。この説は神沢杜口の『翁草』で大奥女中の間で噂されたとある。ただ、家基の死後、その葬儀や処理などは全て田沼意次が担当している。
- 自らの嫡子である豊千代(のちの徳川家斉)に第11代将軍を継承させたかった徳川治済による毒殺説。これには傍証があり、家斉は家基の命日にしばしば墓参したりしているため、当時7歳の家斉が毒殺に関与していたとは思えないのだが、父の治済の犯行であると疑っていた可能性がある。
- 幕末に来日したドイツの博物学者シーボルトは、家基がオランダから輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故を起こして死亡したと記述している。
官歴[編集]
※日付は旧暦
- 1762年(宝暦12年)10月25日 - 誕生。幼名:竹千代
- 1765年(明和2年)12月1日 - 諱を家基とする旨決定
- 1766年(明和3年)4月7日 - 元服し、従二位権大納言に叙任
- 1779年(安永8年)2月24日 - 薨去。享年18(満16歳没)。法名は孝恭院殿。墓所は、東京都台東区上野桜木の東叡山寛永寺円頓院。
- 1780年(安永9年)11月10日 - 贈正二位内大臣
- 1848年(嘉永元年)10月19日 - 贈正一位太政大臣