徳川治察

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徳川 治察(とくがわ はるさと/はるあき、宝暦3年10月7日1753年11月1日) - 安永3年9月8日1774年10月12日))は、江戸時代中期の田安徳川家の第2代当主。官位従三位左近衛権中将参議。父は初代当主・徳川宗武で5男。母は正室近衛家久の娘森姫(宝蓮院)。幼名は寿麻呂、寿丸。松平定信の異母兄に当たる。第10代征夷大将軍徳川家治は従兄に当たる。定信以外の兄弟姉妹に誠姫、裕姫、淑姫、小次郎、銕之助、友菊、仲姫、乙菊、節姫、脩姫、松平定国松平定信種姫、定姫らがいる。官位は従三位左近衛権中将参議

略歴[編集]

宗武の5男で、宗武と正室の近衛氏の子供としては第3子であり、本来なら家督継承の可能性は皆無だったが、兄らが早世したため世子となる。明和8年(1771年)に宗武が死去したため、家督相続して田安徳川家第2代当主になった。

治察は父の宗武に似て文武に優れ、特に文学に通じて国学にも精通し、自ら『泣血集話』や『克一党稿』などの著書を残している。弓馬にも優れ、吹上庭で家治に対してその腕前を披露するほどであった。

しかし元々病弱だったとされ、安永3年(1774年)に病死した。享年19。この若さのため妻子が無く、祖父の徳川吉宗はもし御三卿継嗣が断絶した場合はそのまま断絶させるように命じていたが、治察には弟が多数存在しており、その中で松平定信を後継者にしようとしていたという。しかし、この養子は認められず定信はそのまま松平定邦養子として久松松平家に入り、田安徳川家は当主不在という事態になった。その後、天明7年(1787年)に一橋家徳川治済の5男・斉匡徳川家斉の弟)が相続するまでの14年間、田安家は明屋形(無当主)の状態に置かれた。

当主不在の間も、田安徳川家の一族は江戸幕府に庇護されており、その対処に幕府も苦慮したと言われている。