徳川慶昌
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徳川 慶昌(とくがわ よしまさ、文政8年3月14日(1825年5月1日) - 天保9年5月14日(1838年7月5日))は、江戸時代後期の御三卿・一橋徳川家の第6代当主。
生涯[編集]
文政8年(1825年)3月14日、後に第12代将軍となる徳川家慶の5男として江戸城で生まれる。母は側室のお定(押田勝長の娘)。幼名は初之丞。兄に第13代将軍となる家定がいる。天保8年(1837年)に第5代当主・徳川斉位が実子無く死去したため、その末期養子となって家督を継承して第6代当主となる。しかしわずか1年ほどで死去した。享年14。
この年齢では正室どころか実子も無く、やむなく斉位の弟である慶寿を養子に迎えて家督を継承させている。
家慶の子は家定以外は成人できずに夭折する者が多いが、それでも慶昌の14歳というのはまだ子の中で長生きしたほうであり、そのため慶昌は祖父の家斉が正室を島津氏から迎えている縁戚関係を理由に、当時の薩摩藩主・島津斉興の嫡男・斉彬の養子に入れようとしたことがあるが、島津氏が断ったため成立しなかった。
また慶昌の遊び相手は、幕末から明治にかけて活躍する幕臣・勝海舟で、勝のほうが2歳年上だったが、非常に仲が良かったという。慶昌の早世で勝はお役御免となって、そのため蘭学に邁進したといわれている。
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