徳川敦之助
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徳川 敦之助(とくがわ あつのすけ、寛政8年3月19日(1796年4月26日) - 寛政11年5月7日(1799年6月10日))は、御三卿の清水徳川家の第2代当主。第11代征夷大将軍・徳川家斉の5男。母は家斉の御台所(正室)の近衛寔子。官位はなし。
略歴[編集]
将軍とその正妻の息子であり、御台所が男子を出生するのは第2代将軍・徳川秀忠の正室のお江与(崇源院)以来であった。第12代将軍となった徳川家慶の3歳年下の異母弟に当たる。
敦之助出生の前年の寛政7年(1795年)に徳川重好は継嗣無く死去し、清水徳川家は絶家となっていた。このため、寛政10年(1798年)に敦之助が重好の養子となって清水徳川家の第2代当主となり、同家が再興された。
しかし寛政11年(1799年)5月7日に3歳で死去した。当然、継嗣は無く再度清水徳川家は絶家となり、文化2年(1805年)になって敦之助の異母弟にあたる斉順が養子となって同家を継ぐことになった。