清水徳川家

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清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。清水家(しみずけ)とも言う。

概要[編集]

清水徳川家は江戸幕府の第9代征夷大将軍徳川家重の次男・重好を家祖とする家系である。一橋徳川家田安徳川家と共に御三卿の1つであった。

御三卿とは本来、徳川将軍家継嗣が存在しない場合に新たな将軍候補を輩出することを役目とする家柄である。ところがこの家系はそもそも家祖の重好から実子が存在しない家で、江戸時代の歴代当主も全て後嗣不在で先代が逝去したり、他家の当主に転出すると明屋敷となって殿様不在となった。
そのため、徳川治済松平定信放逐後の田安徳川家に自らの子孫を送り込んだのと同様、第2代から第5代までの当主は全て第11代将軍・徳川家斉の息子(治済の孫)たちを養子に送り入れて、自家の後継者を確保し、何とか将軍家に後継者候補を輩出する家としての面目を保ち、3代当主の子息は紀州藩主を経て、14代将軍家茂となっていて、隔世であるが、将軍後嗣確保の役目は果たした格好となった。

清水徳川家は第10代将軍・徳川家治の実子である徳川家基が早世した際、重好が家治の実弟であったことから後継者に最も近い近親者として将軍候補になりかけたこともあったが、重好は後継者にはなれなかった。以後の当主も将軍になることは無かった。

ちなみに江戸時代の6人の当主はいずれも養子であり、実子継承は1度も存在しない。寿命にしても重好の51歳を除くとみんな50歳以下で早世し、最後の昭武(最後の将軍・徳川慶喜の実弟)は58歳で最長寿であるが、存命中に清水徳川家当主から離脱していて、後に水戸藩主になっている。

歴代当主[編集]

  • 初代当主 重好
  • 1795年 - 1798年 当主不在。
  • 2代当主 敦之助徳川将軍家から養子、11代将軍家斉の子)
  • 1799年 - 1805年 当主不在。
  • 3代当主 斉順 (11代将軍家斉の子。存命中に11代紀州藩主に転出。14代将軍家茂の実父)
  • 4代当主 斉明 (11代将軍家斉の子)
  • 5代当主 斉彊 (11代将軍家斉の子。存命中に12代紀州藩主に転出。)
  • 1846年 - 1866年 当主不在。
  • 6代当主 昭武水戸徳川家から養子、15代将軍慶喜の実弟。存命中に水戸藩主に転出。)

明治維新後の清水徳川家当主[編集]

  • 1868年 - 1870年 当主不在[注釈 1]
  • 7代当主(伯爵篤守 (水戸徳川家から養子、6代昭武の甥)
  • 8代当主 好敏 (7代篤守の子。陸軍中将)

戦後の清水徳川家[編集]

系譜[編集]

凡例:太字は清水家の人物、数字は当主の代数

重好から斉彊まで[編集]

家重
(9代将軍)
宗武
(田安家初代)
宗尹
(一橋家初代)
家治
(10代将軍)
重好1治済
(一橋家2代)
家基
(将軍世子)
家斉
(11代将軍)
家慶
(12代将軍)
敦之助2斉順3
(→紀州家11代)
斉明4松平斉民
(津山松平家8代)
斉彊5
(→紀州家12代)
家定
(13代将軍)
家茂
(紀州家13代→14代将軍)
松平康倫
(津山松平家10代)
松平康民
(津山松平家11代)

昭武以降[編集]

斉昭
(水戸家9代)
慶篤
(水戸家10代)
慶喜
(一橋家9代→15代将軍
徳川慶喜家
昭武6
(→水戸家11代)
篤敬
(水戸家12代)
篤守7 武定
松戸徳川家
芳子
朽木綱貞夫人)
好敏8貞子
(吉井信照[1]夫人)
保子
森明夫人)
川上明鈴子
小原十三司夫人)
山田雄
豪英9
10

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. このため、維新立藩の対象から外れた。

出典[編集]

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  1. 吉井子爵家(旧鷹司松平家)分家。子爵吉井信宝の弟。