甲府徳川家

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甲府徳川家(こうふとくがわけ)とは、徳川将軍家藩屏で、甲府藩主となった徳川氏の一族のことである。

概要[編集]

江戸幕府の第3代将軍徳川家光の後継者は長男徳川家綱であったが、その他に徳川綱重徳川綱吉という成長した男子が2名存在した。

慶安4年(1651年)4月、父の家光が死去する頃に綱重には甲斐国河西地方(巨摩郡山梨郡の両郡の笛吹川以西)に14万石を与えられた。当時はこれを桜田領(さくらだりょう)と称し、将軍家から独立した大名家としての甲府徳川家の起源といわれている。寛文元年(1661年)閏8月に綱重は甲府城主に任命され、所領は甲斐のほか、信濃国近江国武蔵国などに25万石を与えられた。

綱重の兄・家綱は第4代将軍となるが、家綱には子供が無く、そのため家綱に1番近い血縁者である綱重は第5代将軍の有力候補と見なされるようになった。しかし、綱重は延宝6年(1678年)に家綱に先立って35歳の若さで死去。甲府徳川家は綱重の長男・徳川綱豊が継承した。
その2年後に家綱も男子無く死去し、第5代将軍の候補として綱豊と、綱重が甲府徳川家を創設する際に同じように館林徳川家を創設していた綱吉が挙げられた[注 1]が、綱豊は当時19歳と若かったこと、綱吉を老中堀田正俊が強力に後押ししたこともあり、第5代将軍には綱吉が就任し、綱豊にはその代償として近江・信濃・大和国内などで10万石を加増されて、甲府徳川家は35万石の大大名となった。

しかし綱吉も長男の徳松を失った後は男子に恵まれず、長女の鶴姫紀州藩主・徳川綱教に嫁がせてその間に生まれる男子を期待したものの、この夫婦は子供に恵まれないまま鶴姫は綱吉に先立って早世。これにより自身の血縁による後継者を諦めざるを得なくなった綱吉は、宝永元年(1704年)に綱豊を自身の養子に迎えて将軍後継者に指名し、綱豊は江戸城西の丸に入って名を家宣と改めた。この際に甲府徳川家の所領は江戸幕府により吸収され、家臣団も幕臣として取り込まれたので、甲府徳川家はこれをもって絶家となった。

甲府徳川家の歴代当主[編集]

御両典 - 25万石→35万石

  1. 綱重
  2. 綱豊

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  1. 大老酒井忠清は鎌倉時代の先例に倣い有栖川宮幸仁親王を次期将軍に推していた。