徳川宗尹
徳川 宗尹(とくがわ むねただ、享保6年閏7月16日(1721年9月7日) - 明和元年12月22日(1765年1月13日))は、江戸時代の一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主。一橋 宗尹とも名乗った。官位は従三位、参議、贈権中納言。
略歴[編集]
父は江戸幕府の第8代征夷大将軍・徳川吉宗で4男。母は側室の谷口正次の娘・於久。兄に第9代将軍・徳川家重と田安徳川家初代当主・徳川宗武がいる。正室は深達院(関白・一条兼香の娘)。子は8人(松平重昌、仙之助、松平重富、治済、黒田治之、鎌三郎、金次郎、保姫(島津重豪正室))。通称は小五郎。
長兄の家重が嫡子であったが、家重は病弱で言語不明瞭なこともあったため、吉宗は万一に備えて次兄の宗武に田安徳川家を、宗尹に一橋徳川家をそれぞれ創設させて後継者に備えた。
Wikioediaには書かれていないが、その後に越前国福井藩の越前松平家から吉宗に御連枝を養子に貰いたいとの申し出があり、その白羽の矢に立てられたのが宗尹であった。これには越前松平家の家格上昇の思惑もあったようだが、宗尹は既に一橋徳川家の当主だったことから、長男の小五郎を養子として送り、小五郎は松平重昌と名乗って福井藩主になっている。重昌は早世したため、その弟すなわち宗尹の子である松平重富が新たな養子となって福井藩を継承している。
宗尹は多趣味で、特に武芸を好んで鷹狩が父に似て好きだった。そのため1年に10回という制限を受けたが、それでも足りない宗尹は兄の宗武の割当を譲ってもらうほどだった。菓子作りなども得意だったという。
明和元年(1764年)12月22日に死去。享年44。跡を4男の治済が継いだ。法名は覺了院殿冬巖性達大居士。
宗尹の子孫は第10代将軍・徳川家治の後に将軍職を14代まで独占することになり、第11代将軍・家斉は孫、第12代将軍・家慶は曾孫、第13代将軍・家定、第14代将軍家茂は玄孫にあたる。また、徳川宗家16代の家達も宗尹の子孫である。さらに、御三家も尾張、紀伊両家に宗尹の子孫が養子入りし、他の御三卿の田安家、清水家も宗尹の子孫が独占して、田安家は現在まで宗尹の子孫で継承している。
なお、一橋徳川家では宗尹の血統は8代で絶えた。