金本知憲
基本情報 | |
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出身地 | 広島県広島市 |
生年月日 | 1968年4月3日 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 左翼手 |
身長 | 180 cm |
体重 | 88 kg |
金本 知憲(かねもとともあき、1968年4月3日-)は広島東洋カープと阪神タイガースに所属していた日本の元プロ野球選手、指導者。現役時代のポジションは外野手。2016年シーズンより阪神タイガースの監督を務める。
経歴[編集]
広島県出身。地元の野球強豪校の広陵高等学校で通算20本塁打を放ち、セレクションを受けて法政大学に進学しようとしたが高校の野球部の顧問の勘違いでセレクションが既に終わっており、一浪したのち東北福祉大学に進学した。
広島東洋カープ時代[編集]
1991年のドラフトで広島東洋カープから4位指名を受け入団する。背番号は10。 プロ入り当初は「モグラ殺し」(=送球難)と酷評されるほどの悪守備や、左投手を苦手とするなどプロの壁に苦しみ、二軍生活が続いた。 当時としてはまだ珍しかったウェイトトレーニングの導入といった地道な身体作りの結果、1994年から一軍に定着。左のスラッガーとして頭角を表した。
1995年にはベストナインを獲得しレギュラーを奪取、以後赤ヘル打線のクリーンナップの一角としてチームに貢献した。この頃から既に前田智徳や野村謙二郎を初めとした主力選手の故障離脱が相次ぐ中で「休まない」「故障に強い」選手として評価されていた。
1999年から連続フルイニング出場が始まる。 (後述)
2000年、打率.315、30本塁打、30盗塁を記録して史上7人目のトリプルスリーに輝いた。
2002年オフ、FA宣言した上での残留を認めない球団の方針に異議を唱えてFA宣言。阪神タイガースへの移籍を発表した。阪神での背番号は6。
阪神タイガース時代[編集]
2003年、星野仙一監督の下で3番打者で起用され、チームの18年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献した。この年は例年より成績を落としたが、これは2番打者の赤星憲広の盗塁をアシストすることや、3番打者として4番打者に回すために右打ちを徹底することといった3番打者の役割を優先した結果である。以後阪神の黄金期とも言われている時代の象徴的な選手として人気を集めることとなる。
2004年、初の打撃タイトルとなる打点王を獲得。
2005年、この年から4番打者で起用されチームの2年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。シーズンMVPを獲得した。
2006年は連続フルイニング出場記録が904試合に到達し、世界記録となる。この頃から「世界の鉄人」の二つ名が定着し始める。
2008年、史上37人目の2000本安打を達成。名球会入りを果たした。
2010年、春季キャンプで守備練習中に若手選手と激突。右肩に大怪我を負うも手術をせず強行出場することを選ぶ。しかしこれが結果として晩年の選手生活に暗い影を落とすこととなる。それまでに何度も故障を押して強行出場を繰り返してきた金本への首脳陣の信頼は厚く、この時点で継続中だった先述の連続フルイニング出場記録を考慮して「4番・左翼」での起用が続けられたが、右肩痛による打撃不振と外野から内野への送球も満足に出来ない状態の守備はいかんともしがたく、4月18日にスタメンを外れ、連続フルイニング出場記録は1492試合でストップした。
2011年、前年にフルイニング出場記録が途切れてからスタメンを外されることが多くなったが、毎試合代打で出場し、連続試合出場記録は継続していた。しかし4月15日の試合で二死一塁の状況で代打起用された際、一塁走者が盗塁に失敗し、打席未完了のままイニングが終了。そのあと守備につかなかったため、連続試合出場記録はこの試合で止まることとなった。この年も右肩痛の影響で不振が続き、122試合の出場に留まった。
2012年、開幕から低迷を続けるチームの中で奮闘し、大卒選手では史上2人目(長嶋茂雄以来)となる2500本安打を達成。しかし、チャンスでの凡退やエラーといった衰えが顕著になり、チームの若手起用の方針もありスタメンを外れることが多くなっていった。9月、この年限りでの現役引退を表明。
引退後[編集]
2013年より野球解説者としてTV、ラジオなどに出演していたが、チーム成績不振により退任した和田豊の後任として阪神タイガースの1軍監督に2016年より就任することが発表された。阪神監督としては2017年は2位に付けたものの、2018年シーズン終了後に最下位の責任を取って退任した。
プレースタイル[編集]
故障をしても出場を続ける闘志溢れるプレースタイルは多くの選手に影響を与えた。また、練習熱心で、ベテラン選手にもかかわらず誰よりも長く練習を続ける姿勢は暗黒時代が長く続いていた阪神のチームの雰囲気を変えたと多くのOBから評価されている。この練習を人より多くこなす習慣は、プロ入りが24歳と遅く即戦力としても活躍出来なかったため、チーム内の競争に勝つために考えた結果だと本人は語っている。 また、併殺が少なく、連続無併殺記録の日本記録を保持している。(1002打席連続)このことは、併殺崩れは打率が上がらず個人成績に結び付かないが、そういう状況でも全力疾走することがチームへの一番の貢献だと語り、この記録を最も誇りに思う記録だとしている。
人柄[編集]
ひょうきんな性格で知られ、後輩の新井貴浩や阪神時代のチームメイトの藤本敦士へのいたずらのエピソードは枚挙に暇がない。「アニキ」という二つ名は信頼が厚く後輩から慕われている金本の性格をよく表しているといえる。ちなみに本人は末っ子である。
通算成績[編集]
年数 | 出場試合数 | 通算打率 | 通算打数 | 安打数 | 本塁打数 | 打点数 | 得点数 | 三振数 | 盗塁数 | 四球数 | 死球数 |
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18年 | 2578 | .285 | 8915 | 2539 | 476 | 1521 | 1430 | 1703 | 167 | 1368 | 72 |
その他の記録
- 連続試合フルイニング出場 - 1492試合(1999~2010年)※世界記録
- 連続打席無併殺 - 1002打席 ※日本記録
- 連続試合出場 - 1766試合(1998年~2011年) ※衣笠祥雄に次いで日本2位
- 打率3割、30本塁打、30盗塁(トリプルスリー)(2000年)※史上7人目
- 全球団から本塁打 ※史上4人目
- 2500本安打 ※史上9人目、大卒入団選手では2人目
獲得タイトル[編集]
注釈[編集]
関連項目[編集]
- 金本兄貴のスタミナハラミ丼
- 金本位制 - 「見た目が金本の蔑称っぽい」という身も蓋もない理由から、なんでも実況(ジュピター)及びその後継掲示板では金本位制に関する話題が悉く金本に乗っ取られる形で潰されている[1]。