淳于瓊
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淳于 瓊(じゅんう けい、? - 200年)は、中国の後漢末期の武将。字は仲簡(ちゅうかん)[1]。
生涯[編集]
豫州潁川郡の出身[1]。『後漢書』によると最初は袁紹や曹操とは同格で、188年に西園八校尉が創設された際に佐軍校尉となった。『山陽公載記』では右校尉とある。
その後、董卓の乱などで中央が混乱すると袁紹の家臣となり、献帝を擁立するかどうかの議論の際には郭図と共に反対論を唱えた[1]。200年の官渡の戦いでは袁紹軍の食糧輸送の任に当たり、鳥巣の兵糧貯蔵地に駐屯していたが、許攸の離反により曹操の奇襲を受け、淳于瓊は楽進に討たれた[1]。
『曹瞞伝』によると淳于瓊は曹操に捕縛されると鼻を削がれた上で曹操の下に引き出され、曹操から「どうしてこのようになったのか」と問われると「勝敗は天にある。どうして質問の意味があろうか」と答えたので曹操は淳于瓊を助けようとした。しかし許攸が「明朝に鏡を見れば我々に対する恨みを忘れないでしょう」と答えたため、曹操は思い直して殺したという。
『三国志演義』では第3回の何進の没後、宦官に連れ去られた劉弁と陳留王(献帝)を出迎える際に初登場。官渡の戦いでは史実通り鳥巣を守るが酒好きで泥酔していたところを曹操軍の夜襲を受けて耳・鼻・指を切り落とされて袁紹の下に送り返され、その失態に激怒した袁紹に処刑されている。