劉虞

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劉 虞(りゅう ぐ、? - 193年)は、後漢皇族。字は伯安(はくあん)[1]。子は劉和後漢光武帝の子・東海恭王・劉彊の子孫[1]

生涯[編集]

反乱の鎮圧[編集]

徐州東海郡郯県(現在の山東省郯城県)の出身[1]。『呉書』によると劉虞は後漢の皇族の子孫ではあるが、当時の皇帝との血縁は極めて薄かったので最初はの下級役人として出仕したという。廉潔に職務を務めて励んだため、やがての役人に選ばれて、さらに孝廉に推挙されてとなった。そしてその後も昇進を重ねて幽州刺史に任命され、後に甘陵の相に転任して東方における異民族の信頼を勝ち取った。後に病気を理由に郷里に帰るが、いつも謙虚で郷里の人々と苦楽を共にし、質素を旨として名声を笠に着て驕り高ぶったりしなかったため、郷里の人々は全員劉虞を尊敬したという。当時、劉虞の郷里では係争が生じても役人の所へは行かず、劉虞の審判を仰いで劉虞は情理に基づいて裁決を下したので全ての人々が心から従い、劉虞に怨みを持つ者はいなかったという。

187年中山郡太守である張純張挙鳥丸と結んで反乱を起こすと(張純の乱)、当時宗正の職にあった劉虞は高潔な上にかつて幽州として人々に広く恩恵を施し、異民族を心服させていたので、反乱の鎮圧を任されてその任務に当たった。劉虞は異民族に使者を送り、特に鳥丸の丘力居に利害や損得を説いて張純の首を差し出すように厳しく要求し、丘力居は劉虞の幽州牧就任に喜んで劉虞に帰順し、張純は妻子を捨てて鮮卑の下へ逃亡したが食客の王政暗殺されて鎮圧してしまった[1]。劉虞の存在は鳥丸や鮮卑などから広く知れ渡り、清廉で人望も厚かったという[1]

ただしこの反乱鎮圧の際、強硬策を唱える公孫瓚と対立し、劉虞は各方面の駐屯部隊を引き揚げて公孫瓚の歩兵と騎兵の1万だけを右北平に孤立させている。反乱鎮圧の功績により、劉虞は太尉に任命され、襄賁侯に封じられた。

董卓が189年洛陽に入城して政権を掌握すると、劉虞は董卓より大司馬に任命された。

皇位を拒否[編集]

191年董卓長安に強行遷都すると、劉虞は董卓から太傅に任命されたが、この就任命令は交通が遮断されていたため劉虞の下には届かなかった。

反董卓連合の盟主の袁紹冀州牧の韓馥らは朝廷が董卓により専横されて天下が心のよりどころを無くし、劉虞は皇族の中でも名声も人望もあるので彼を皇帝に立てる計画を立てて使者を劉虞の下に送った。使者は元の楽浪郡太守甘陵郡張岐という人物で、劉虞に帝位に就くように求めたが劉虞は厳しい口調で張岐を叱りつけ「そなた、よくもそんなことを。忠孝の道もすたれたものだ。私は国恩を受けていながら天下大乱の今、命をかけて国辱をすすぐこともできずにいるが、各地の忠義の士と力を合わせて西へ向かい、幼帝(献帝)を救出したいと思っている。それなのに謀反をそそのかしたりして、忠臣の顔に泥を塗ろうというのか」と述べたという(司馬彪の『九州春秋』)。『呉書』によると劉虞が匈奴の地に身を投じて袁紹の計画から逃れようとしたので、袁紹も劉虞を皇位に就けようとするのを諦めたともいう。

他にも、袁紹は皇帝への即位を拒否するなら録尚書事になって人事の大権を掌握するように勧めたが、それも野心が無くあくまで後漢王朝の復興を望んでいたために劉虞は辞退した[1]。ただし袁紹との友好関係は保ち続けた。

最期[編集]

孫盛の『魏氏春秋』によると、劉虞は北方異民族を懐柔するため財物を贈っていたが、武断作戦を求める公孫瓚は強硬策を唱え、遂にはその財物を公孫瓚に奪われたため、劉虞は公孫瓚に何度も会見を申し込んだが、公孫瓚はそのたびに病気と称して会おうともしなかったという。

また献帝が侍中として自分に仕えていた息子の劉和を使者として劉虞の下へ送り、兵力を率いて自分を迎えに来るように計らったのだが、劉和は袁術の領内で計画を打ち明けたので袁術に足止めされてしまい、その劉和が書いた手紙を劉虞の下へ送り、劉虞は劉和の下へ数千の軍勢を派遣しようとしたが公孫瓚は袁術に兵力を奪い取られる事を見抜いて反対し、ここでも劉虞と対立関係に至った。

192年に公孫瓚は界橋の戦いで袁紹に大敗し、防衛を強固にするために城の東南に新しい小規模の城を造営したが、これが劉虞とは目と鼻の先であったため、これも公孫瓚との関係悪化の一因になった。

劉虞は公孫瓚を討伐しようとしたが参謀の魏攸が諌めたため思いとどまった[1]。しかし193年に魏攸が病死すると、劉虞は公孫瓚討伐の軍勢を起こした[1]。この際、自軍に対して「余人は傷つけず、殺すのは公孫瓚のみ」と命じたため統率が取れず、また軍事的才能は凡庸だったため、劉虞は敗れて居庸に逃走し、追撃した公孫瓚により居庸も攻め落とされて公孫瓚に捕縛される[1]

献帝はこの頃、段訓を使者にして劉虞の所領を増やし六つの州を治めさせようとしたが、公孫瓚は劉虞が皇帝を僭称しようとしていると誣告して段訓を脅迫し、献帝に上奏して段訓を幽州の刺史に任命するように求めた。

そして公孫瓚はかつて袁紹が皇帝に推挙した事から、市場に引き出して晒し者にした後、劉虞に対して「皇帝になれるほどの人物なら雨を降らせることもできよう」と難癖をつけた。そして夏の真っ盛りで雨が降らなかったため、公孫瓚は劉虞を処刑したと『典略』にはある。

人望の厚かった劉虞の処刑は公孫瓚の人望を急速に衰えさせ、劉虞の家臣だった閻柔鮮于輔斉周鮮于銀らの反乱を招き、袁紹も劉和に軍勢を与えて公孫瓚を攻撃させ、結果的に6年後の公孫瓚滅亡の遠因となる。

三国志演義』では張挙・張純の乱を劉備と協力して鎮圧し、督郵鞭打ちの罪も放免している。皇帝に推挙された話は無い[1]

人物像[編集]

劉虞は高潔な人物として評価されている。『英雄記』によると博平の県令だった頃に公正な治世と高潔な人柄のために領内では盗賊も無く災害も起らなかったという。博平の隣接地域ではが発生して被害を被っていたが、博平の境界まで飛んできた蝗は劉虞の領内には入ってこなかったという。『呉書』によるとある時、牛を無くした者がいてその牛の身体つきや毛の色が劉虞所有の牛とそっくりだったのでその者は自分の牛と言い張り、劉虞は黙って自分が所有していた牛をその者に与えた。すると別の場所で自分の牛が見つかったので、その者は劉虞に牛を返還して謝罪したという。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 小出『三国志武将事典』P65

参考文献[編集]