田豊

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田 豊(でん ほう、? - 200年)は、中国後漢末期の政治家武将元皓(げんこう)[1]。後漢王朝や韓馥に仕えた後、袁紹に仕えて参謀として数々の献策を行ない曹操にも認められた名参謀であったが、袁紹軍内部の権力争いや自らの性格などが災いして官渡の戦い直前に投獄され、戦後に処刑された。

生涯[編集]

冀州鉅鹿郡の人とも勃海郡の人ともいわれる[1]。生まれつき博学多才で権謀機略に富み、名声は郷里に知れ渡っていた。最初は後漢王朝に招聘されて侍御史に任命される[1]。しかし当時の後漢王朝が宦官の天下でその腐敗により有能な人材が迫害されているのを見て失望して官位を棄てて郷里に戻った[1]

その後は『先賢行状』では袁紹に招聘されてその家臣になったとされているが、『後漢書』では韓馥に仕えたとある。しかし韓馥からは正直な性格を忌避されて重用されなかった[1]191年に韓馥が袁紹に冀州を譲った際に、これに反対する同僚の耿武閔純らを袁紹の命令で殺害し、それにより別駕に任命される[1]。その直後に袁紹が公孫瓚界橋の戦いで衝突した際、袁紹が公孫瓚軍の攻撃で騎兵に包囲されて矢を雨のように放たれた際、田豊は袁紹の逃走を助けて垣の隙間に袁紹を避難させようとしたが、袁紹は「大丈夫たる者、突き進んで戦死する者だ」と述べて拒否したという[1]。この際は公孫瓚軍の騎兵が少なかったことなども幸いして袁紹も田豊も難を逃れている[1]

献帝郭汜らの下から脱出した際、田豊は袁紹に献帝を冀州で推戴するように進言したが、袁紹はこれを受け入れず、献帝は曹操に推戴されたので袁紹は大変後悔したという[1]。その後の公孫瓚軍を滅ぼす戦いでは田豊の功績・献策は大きかったという[1]

田豊の正直な性格は袁紹軍でも忌避され、特に同僚の逢紀とは折り合いが悪かった[1]。また袁紹もたびたび諫言を繰り返す田豊を次第に嫌いだし、曹操との戦いが始まる頃には既に袁紹からの信任を失っていた[1]。200年1月、曹操が徐州劉備を攻撃して主力が中央部から一時的に消えたのを見ると、田豊はすかさず袁紹に曹操の背後を襲撃するように進言するが、袁紹は息子(袁尚のことか?)の病気を理由に出陣を拒否し、田豊は「せっかくの好機を赤子の病気で逃がすとは無念」と杖で地面をたたいて悔しがったという[1]。劉備が曹操に敗れて袁紹を頼り、袁紹は曹操を打倒するべく出陣しようとすると、田豊は沮授と共に持久戦による長期対陣を主張し、その間は軍備の充実と農業の推進、外交で劉表孫策ら諸侯と同盟を締結して曹操を包囲し、さらに精鋭による奇襲部隊を編成して曹操領の国境周辺で暴れさせて攪乱させれば勝利を得られるという作戦を主張する[1]。しかし袁紹は短期決戦を望んで田豊の献策を受け入れず、田豊は必死になって諫言して遂に袁紹の怒りに触れて軍の士気を粗相させたとして投獄されてしまった[1]

官渡の戦いは袁紹の敗北に終わり、袁紹は田豊の献策に従わなかったことに後悔したという[1]。牢番人は田豊に対してこれで貴方も重用されるでしょうと言うと、田豊は「もし戦いに袁紹殿が勝てば我が生命は救われたが、敗戦したのであればわしは必ず殺される」と悟っていたという[1]。短期決戦を主張した田豊の政敵である逢紀は「田豊は獄中で手を打って大笑いしております」と袁紹に讒言したため、袁紹は考えを改めて田豊を処刑した(『先行賢状』)。

人物像[編集]

曹操にも優れた参謀として知られており、官渡の戦いで田豊が袁紹に従軍していないことを知った曹操は「袁紹は必ず敗れる」と述べ、勝利した後には「もし袁紹が田豊の献策を用いていたならば、どうなったかわからない」と評したという。官渡の戦いで生き延びた兵士ですら胸を打ちたたいて悔し涙に暮れながら「田豊さまさえおられたら、決してこんなざまにならなかったものを」と述べるほどだったといわれる(『先行賢状』)。

歴史家孫盛は田豊と沮授は前漢張良陳平に優るとも劣らぬ謀臣として高く評価している。だがその一方で「臣下は主君の器量を知ることが何より大事で、暗君に仕えた臣下は必ず哀れな末路を迎えざるを得ない。田豊は袁紹の敗北を予見し、敗れた時には生命がないことを自覚していながら虎口に飛び込むような気持ちで諫言を尽くしたのである。烈士たるもの、主君に仕えるからには我が身の存立など顧みないものである。ただし田豊は袁紹の子飼いの臣ではなかったのであるから、義を基準にして去就を決めればよいはずで、無道の国を去って有道の国に仕える。これが大事である」と優れた参謀で忠烈の家臣であったことを評価しながら、仕える主君を見誤ったと批判されている(『先行賢状』)。

曹操の参謀である荀彧は「剛直で主命に逆らう」と評している[1]

三国志演義[編集]

三国志演義』における田豊も優秀な参謀として描かれているが、史実通りやはり剛直な性格から袁紹に嫌われていた。最期は官渡の戦いで袁紹が敗れると、袁紹に殺される運命を悟って処刑される前に自殺していることになっている[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 小出『三国志武将事典』P47

参考文献[編集]