韓馥
ナビゲーションに移動
検索に移動
韓 馥(かん ぷく、? - 192年)は、中国の後漢末期の政治家・冀州牧。字は文節(ぶんせつ)[1]。
生涯[編集]
豫州潁川郡(現在の河南省)の出身[1]。後漢の御史大夫であったが董卓が政権を掌握すると冀州牧に推挙される[1]。一時は董卓に味方して渤海郡太守の袁紹を牽制したが、結局は反董卓連合軍に参加した[1]。冀州は肥沃な領土で多くの兵士を養えるため、公孫瓚が董卓討伐を口実に侵攻して来ると臆病な韓馥は恐れて袁紹に冀州を譲ろうとした[1]。家臣の耿武・閔純・李歴・趙浮・程奐らがいずれも諌めて反対したが韓馥は聞き入れなかった。そして袁紹に冀州を譲ると韓馥は奮威将軍に任命される[1]。しかし袁紹も恐れて張邈の下に逃走した[1]。そして張邈の下に袁紹から使者が派遣されると、自分の処置についての事と思って厠へ行って自殺したという[1]。
『三国志演義』では反董卓連合軍が瓦解すると肥沃な冀州に野心を燃やす袁紹に騙される形で地位を奪われた。韓馥は悔やんだが既に後の祭りで家族を捨てて逃亡した。