織田信正
織田 信正(おだ のぶまさ、天文23年5月5日(1554年6月4日) - 正保4年11月25日(1647年12月21日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。織田氏の一族。織田信長の庶長子と言われているが、実在そのものが疑問視されている人物である。
略歴[編集]
父は織田信長。母は信長の家臣・原田直政の妹・原田直子。信正の存在は『系図簒要』『好古類簒系図部類』などにあるのだが、一次史料や各種軍記物には全く記録されていないため、実在そのものが疑われている。
天文23年(1554年)5月5日に尾張国那古野城で生まれたとされ、幼名は於勝丸(おかつまる)という。この時、信長は21歳で嫡男となる織田信忠より3歳年上だった。ところが、正室の濃姫が信正の存在に嫉妬したことから、やむなく信長は信正を那古野城から出して家臣の村井貞勝に養育させ、そのまま村井姓を称させ、永禄9年(1566年)に元服して村井帯刀重勝(むらい たてわき しげかつ)と名乗った。同年の3月、信長が古渡城を修築し、11月には信正を城主に任命して護衛に養父の村井貞勝、外伯父の原田直政を付けて、母の原田直子と共に城に入った。
永禄11年(1568年)9月、信長が足利義昭を奉じて上洛した際に初陣。信長から「直指人心見性成仏」という旗を送られ、六角義賢の箕作城攻めで武功を立てたことから、足利義昭から感状と太刀を贈られた。天正3年(1575年)6月、正親町天皇から菊桐の紋や珍器を与えられた。
時期不明だが、安土城山麓にあった弥陀尊像を本尊とする堂宇に信正が滞在していた時、信正の前に美童が現れて「苦悩患難を解脱したいのならば、この弥陀を専念せよ」と告げて消えた。信正はこれを受けて堂宇の改築を行ったが、それが完成した天正10年(1582年)5月27日に弥陀尊像が鳴動した。そして6月2日、本能寺の変で信長と異母弟に当たる織田信忠が横死してしまったが、信正はこの際に美濃国岐阜城にいたので難を逃れたという。
豊臣秀吉の天下になると、病気と称して京都に閉居。天正13年(1585年)あるいは天正15年(1588年)の4月、京都において見性寺を開基したとされ、天正14年(1586年)には剃髪して見性軒と号した。ただし、出家の時期は天正13年(1585年)とされ、了盛居士と号したともいわれている。天正16年(1588年)6月に信長と信忠、および本能寺で戦死した家臣らの7回忌を執行し、秀吉が京都市内を改造しようと計画した際の天正19年(1591年)9月13日に寺の土地を与えられた。徳川家康の時代になっても寺領は安堵された。
正保4年(1647年)11月25日に京都で94歳の長寿を全うした。既に時代は第3代征夷大将軍・徳川家光時代の末期であった。
『系図簒要』においては、天正2年(1574年)に従五位下大隅守に、天正3年(1575年)に従五位上主膳正に、天正5年(1577年)に従四位下侍従に叙任したとある。また、妻に関しては信長の異母兄である織田信広の娘・恭姫と養父である村井貞勝の娘がいたとされている。大隅守の受領名は信広のもので、信広は天正2年(1574年)に戦死していることから、信広の家系を継承したと見られる可能性が高い。
ただし、これらは一次史料では確認できないことである。