織田信広

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織田 信広(おだ のぶひろ、? - 天正2年9月29日1574年10月13日))は、戦国時代武将織田氏の一族で家臣。織田信秀の子。織田信長の庶兄。通称は三郎五郎。津田姓を称したとされている。受領名は大隅守。

生涯[編集]

生母は不詳だが信秀の側室だったことから、信秀の嫡子としては扱われなかった。父に早くから従っており、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで勝利した信秀は、信広を三河安祥城城主に任命して三河進出の足掛かりとしている。しかし天文17年(1548年)3月、駿河今川義元は重臣の雪斎に大軍を預けて三河に侵攻させる。これに対して信広は織田軍の先陣に立って今川軍の先陣である朝比奈泰能と第2次小豆坂の戦いで激戦を繰り広げるも敗れた。そして天文18年(1549年)3月、松平広忠が家臣に暗殺されると、今川義元と雪斎による今川軍により三河岡崎城は事実上占領され、さらに安祥城も攻められて、信広は抗戦するも敗れて11月に落城し、雪斎の開城交渉を受け入れて信広は捕虜となった。しかし織田信秀・今川義元の人質交換交渉により、信広は信秀の手元にあった松平広忠の遺児・竹千代と身柄を交換されて尾張に帰還することになる。

父の信秀が死去すると、家督は正室腹の弟である信長が継承し、信広はその家臣となるが、自らの処遇に不満を抱いて信長に対し反乱を起こした。美濃斎藤義龍と手を結んで信長の出陣中に清州城を乗っ取り、義龍と連携して信長を葬ろうとしたのであるが、信長に事前に看破されて未遂に終わり、信長に降伏して許された。以後は信長の忠実な一門家臣となる。信長には年長の一門が尾張統一の過程で死んでいるためほとんどおらず、自らの息子らもまだ幼少だったことから、信広は信長の庶兄として重用され、信長の名代、あるいは織田軍を率いる武将として各地を転戦して活躍し、功績を挙げた。自らの娘(深光院)は信長の養女として信長の重臣・丹羽長秀に嫁いでおり、かなり重用されていたことがうかがえる。

天正元年(1573年)に室町幕府の第15代征夷大将軍足利義昭が信長に対して反乱を起こした際には、信長の名代として上洛し、二条城で義昭と会見して和議を結ぶ交渉を果たしている。

天正2年(1574年)、信長の伊勢長島一向一揆討伐戦に参加し、信長が指揮する早尾口の先陣を前田利家佐々成政・丹羽長秀らと共に務めた。さらに津田信成津田信次ら一門衆と共に一向一揆が立て籠もる篠橋城を攻めた。そして9月29日、信長の命令で長島から退散する一向一揆に攻撃を仕掛けた際、激怒した一向一揆の逆襲を受けて戦死したという。年齢は不詳だが、少なくとも40代には達していたと見られている。