皇甫嵩
皇甫 嵩(こうほ すう、? - 195年)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は義真(ぎしん)[1]。曾祖父は皇甫棱。祖父は皇甫旗。父は皇甫節。子は皇甫堅・皇甫寿。曾孫は皇甫謐。伯父は皇甫規。甥は皇甫酈。
生涯[編集]
後漢王朝に仕え、霊帝の時代に議郎に任命され、後に北地郡太守に任命される[1]。184年の黄巾の乱では左中郎将に任命されて一軍を率い、潁川の黄巾軍を率いていた波才を火攻めで破る[1]。さらに黄巾の総大将である張角の弟・張宝と張梁を斬るなど戦功を立てて黄巾の乱鎮圧に大きく貢献した[1]。反乱が鎮圧される前に病死して埋葬されていた張角の棺を暴いて晒し首にし、この功績で左車騎将軍、領冀州牧に任命される[1]。
皇甫嵩は前将軍の董卓と不仲な上にライバルとして互いに下風に立つことを嫌っていた[1]。そのため、董卓が政権を掌握してそれに反発した諸侯が反董卓連合軍を起こすと、冀州の信都令であった閻忠は信望が高かった皇甫嵩に対して独立して帝位に即位するように勧めたが、皇甫嵩はあくまで後漢の忠臣でありたいと考えていたため拒否し、閻忠は逃亡した[1]。董卓が連合軍の勢威を避けて長安に遷都すると、皇甫嵩は董卓から召喚令を受ける[1]。この際、皇甫嵩は董卓に対抗できる兵力を有していたが、董卓が献帝を擁立していたためやむなく召喚に応じた。董卓は皇甫嵩を処刑しようとしたが、皇甫嵩の息子の助命嘆願もあり許したという[1]。
192年に董卓が王允・呂布らに暗殺されると、征西将軍・車騎将軍・太尉と昇進したが、日食により罷免される[1]。後に光禄大夫・太常と再度栄進し、衰退した後漢の権威回復に期待を寄せられたが、実権は董卓の旧臣である李傕・郭汜に掌握されており、この両者が政権をめぐって抗争する195年に病死した[1]。
『三国志演義』では黄巾の乱で鎮圧を担当する司令官のひとりとして登場し、火攻めや張角の棺を暴いたりなど史実を軸にした活躍が描かれている[1]。やがて義勇軍を率いた劉備が皇甫嵩の指揮下に入ったりするのは創作である[1]。