少帝懿

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少帝 懿
しょうてい い
本名 劉 懿(りゅう い)
性別
年齢 不詳
時代 後漢・中期
生年月日 不詳
死没日 延光4年10月27日
125年12月10日
死因 病死(ただし毒殺の可能性あり)
肩書き 皇帝
国籍 後漢
任期 在位:延光4年3月28日 - 10月27日
125年5月18日 - 12月10日
前任者 第6代皇帝 - 安帝
後任者 第8代皇帝 - 順帝
父:劉寿:不詳
補足 延光125年

少帝 懿(しょうてい い)は、後漢の第7代皇帝

生涯[編集]

父は後漢の皇族で済北王の劉寿祖父は第3代皇帝・章帝

125年に従兄の第6代皇帝・安帝崩御したため、その皇后閻姫によって後継者として擁立される。しかし、その年のうちに崩御した。

傀儡を失った閻姫はたちまち宦官孫程らによって排除され、閻姫は翌年に死去した。劉懿は皇帝としてではなく、王侯として葬られて皇帝としての扱いは受けなかった。新たな皇帝には孫程らにより、安帝の皇子である順帝が擁立された。

これらの経緯から、暗殺された可能性もあるが定かではない。また、皇帝ながら生年不明という状態だが、少帝という尊号から恐らく幼帝だったと考えられる。