冲帝
ナビゲーションに移動
検索に移動
沖帝 ちゅうてい | |
---|---|
本名 | 劉 炳(りゅう へい) |
性別 | 男 |
年齢 | 3 |
時代 | 後漢時代・中期 |
生年月日 | 漢安2年(143年) |
没年月日 |
永憙元年1月6日 (145年2月15日) |
死因 | 病死(ただし毒殺の可能性あり) |
肩書 | 皇帝 |
国籍 | 後漢 |
任期 |
在位:建康元年8月6日 - 永憙元年1月6日 (144年9月20日 - 145年2月15日) |
前任者 | 第8代皇帝 - 順帝 |
後任者 | 第10代皇帝 - 質帝 |
記録 | わずか3歳で崩御した幼帝 |
親 | 父:順帝。母:虞美人 |
補足 | 永憙(145年) |
テンプレートを表示 |
生涯[編集]
第8代皇帝・順帝の子で、父が生まれた翌年に崩御したため、皇太子であった劉炳が数え年わずか2歳で即位して第9代皇帝となった。年齢的に親政するのは不可能であり、父帝の時代から台頭していた外戚の大将軍・梁冀によって専横が続けられた。父帝の時代から国内では政治腐敗と反乱が相次いでいたが、この沖帝の時代も引き続き、それが続いている。
即位の翌年である145年にわずか3歳で崩御した。当然、継嗣は無く、皇族の渤海王である劉鴻の子・劉纘が質帝として梁冀に擁立された。
3歳で急死したことから、梁冀による毒殺説も存在する。これは次の質帝が毒殺されたことによるものと、梁冀のやり方からの推定であるが、当時の沖帝はまだ3歳で梁冀が専権を振るうには非常に都合がよく、この時点で暗殺する利点が無いのであくまで憶測でしかない。なお、沖帝はわずか3歳で崩御しているが、これは後漢でまだ2番目の短命皇帝である[注 1]。