梁冀

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梁 冀
りょう き
性別
時代 後漢時代・中期
生年月日 不詳
死没日 159年
死因 自殺
肩書き 後漢大将軍
配偶者 孫寿
父:梁商

梁 冀(りょう き)は、中国後漢中期の政治家外戚である。第8代皇帝の順帝から第11代皇帝の桓帝まで4代にわたり専権を振るい、後年の董卓に劣らぬ悪政を繰り広げたことで知られるが、『三国志』の時代の前の出来事なのであまり有名ではない。最後は桓帝の逆襲を受け、宦官一派により一族皆殺しとなった。

生涯[編集]

出世のきっかけ[編集]

父は梁商という。梁冀はのような怒った肩、豺のような眼をしており、酷いどもりで読み書きがやっとできる程度で、もし出世のきっかけがなければ恐らく小役人すら務まるかどうかという人物だった。

姉の梁妠が順帝の皇后になったことから、梁氏は後漢の外戚となり、父の梁商は大将軍に出世する。その姉の七光りにより、梁冀は父が死去すると、大将軍の位を継承することを許されて国政に参画するようになった。

悪政と栄耀栄華[編集]

董卓は三国志の初期を彩る魔王として著名であるが、この梁冀にしても決して董卓に劣る魔王では無かった[注 1]。むしろ董卓に勝るところもあり、悪行が余りに多すぎるので注意してほしい。

  • 144年に順帝が崩御する。するとわずか2歳の皇太子を沖帝として即位させたが、この沖帝もその翌145年に崩御した。急死であったため、梁冀による毒殺も疑われている[注 2]
  • 沖帝の後継者として、傍系皇族から質帝が第10代皇帝として迎えられた。ところが質帝はわずか8歳であるにも関わらず聡明で、梁冀を「跋扈将軍」と呼んで憚らなかった。梁冀は質帝が成長したら殺されることを恐れて、毒殺してしまった。
  • 質帝も夭折したため、またも傍系皇族から桓帝が15歳で擁立された。沖帝から桓帝まで、重臣の李固が外戚すなわち梁冀の専横を食い止めるため、もっと年長者の皇族を皇帝にするように求めて梁冀と対立。梁冀は後年に李固を殺した。
  • 皇太后となっていた梁妠は150年に死んだが、その際に梁冀に対して桓帝が成長したならば政権を返すようにと遺命した。しかし梁冀はこれを聞き入れなかった。
  • 梁冀の妻は孫寿という。夫の悪政を諫めるどころか、同調してやりたい放題して多くの人の怨みを買った。
  • 桓帝は傍系皇族だから本来は皇帝になれる可能性はほとんど無かった。それが梁冀に担がれる形で即位できたため頭が上がらず、梁冀に特権を与えて厚遇していた。しかし、姉が皇后になったから、父親の死で大将軍を世襲しただけで桓帝の擁立には功績があるものの、心ある人からは優遇のしすぎだとして不評を買った。だが、当の梁冀自身はまだこれでも足りないとばかりに不満をあらわにしていた。
  • 自らの屋敷を豪邸にした。すると妻の孫寿はこれみよがしにそれ以上の大豪邸を建設し、贅の限りを尽くした。
  • 地方からの献上品は普通は皇帝に目通りされるのだが、梁冀にまず目通りして良い献上品が彼の物になり、残り物が皇帝に献上された。
  • 孫寿とは必ずしも仲が良かったわけではなく、単に金銭と権力で結びついていただけの可能性がある。梁冀は友通期という美女と、孫寿は自家の執事だった秦宮とそれぞれ不倫していたという。

以上のように悪行と栄華を極めたために、多くの人からの不満を買っていた。梁冀は読み書きがやっとできる程度だが、実は人の心を読むことには長けていたのでこれを知っていた。そして、梁冀は自身の権力を守るために以下のようなこともしている。

  • 自分の言うことを聞かなかった県令呉樹を毒殺した。
  • 遼東太守として赴任する際に自分の下に挨拶に来なかったという理由で、侯猛を別の理由をかこつけて処刑した。
  • 新任の官吏が就任する際には梁冀の下に挨拶に来るように命令していた。侯猛の一件のように「挨拶に来ない者=自身にとって危険人物」とされてしまい、常に始末されるか左遷された。
  • 郎中袁著は19歳という青年だったが、熱血漢だったので何と梁冀を弾劾する上奏文を朝廷に奏上した。勿論、すぐに梁冀に知られて逮捕され、鞭打ちで処刑された。
  • 袁著の友人は連座対象となり、劉常は左遷、郝潔胡武らは三公に意見書を提出して梁冀に逮捕され、殺された。
  • 前述しているが、新任の官吏は梁冀の下に挨拶に赴かないといけないが、南郡太守の馬融と江夏郡太守の田明らは梁冀の弟・梁不疑の下に先に挨拶に行った。すると梁冀は2人の太守と自分の弟まで処分してしまった。
  • 天文台長の陳授は桓帝に対し、日蝕の原因が大将軍すなわち梁冀にある、つまり梁冀の悪政にあると遠回しに直言した。これが梁冀に知られて逮捕されて投獄されて獄死した。

このように、梁冀はわずかでも自分に対して何かやらかしたり、その気配が見えただけで弾圧して厳しく取り締まり、彼に対する不満はますます膨れ上がっていた。

自滅と末路[編集]

梁冀に擁立された時点で15歳だった桓帝は、自身が成長しても政権を返さない梁冀に対して激しい不満を持っていた。また、梁冀が殺した者はある意味で桓帝の力になる、つまり桓帝の味方であるだけに、それらを殺していったことも不満の原因になっていた。

梁冀も桓帝の不満は承知していた。そこで桓帝に一族の美女の娘を嫁がせて骨抜きにしようと目論んだ。ところが一族にめぼしいものが見当たらず、妻の母方の叔父・梁紀の娘・鄧猛女に白羽の矢を立てた。正確にいうと、梁紀の後妻の連れ子なので梁氏一族の血は全く引いていない。鄧猛女の母は梁宣といい、元々は鄧香と結婚して鄧猛女を産んでいた。鄧香は早世し、当時は鄧宣だった彼女は娘を連れて梁紀と再婚した。梁冀は桓帝の皇后にする際、桓帝に対して「自分たち(梁冀・孫寿夫妻)の娘」ということにして後宮に入れた。これ自体が大罪だった。皇后になるからにはその身元を明らかにする必要があり、虚偽申告は完全なる大罪だったのである。

梁冀・孫寿夫妻はこの虚偽申告が露見することを恐れて、鄧猛女の出自を知る者を抹殺することにした。実は鄧猛女には姉が1人おり、それが議郎邴尊と結婚していた。当然、鄧猛女の出自も知っている。しかも議郎だから朝廷でいつ何を言い出すかわからないので、梁冀は邴尊を刺客を送って抹殺した。

次に母親の梁宣も同じように抹殺することにした。しかし、宦官袁赦に助けられて何とか命拾いした。既に娘婿の邴尊が抹殺されていたので、梁宣は全てを悟って宦官に助けを求めた。桓帝も梁冀から政権を奪い返すため、宦官を頼りにした。宦官は梁冀のこの一件を知り、梁冀を排除しようと画策する。しかし、鄧猛女の一件だけでは抹殺するには理由が弱かった。

一方、梁冀も暗殺の失敗で宦官を監視するため、自分の腹心である張惲という宦官を監視役として送り込もうとした。ところが、正式な手続きをしないまま張惲を宦官として送り込んだのでこれが問題になった。恐らく梁冀は20年以上にわたって専権を欲しいままにしたため、このくらいは大丈夫と考えたのであろうと推定されるが、宦官は皇帝の私生活を世話するのが職務のため、正式な手続きもせずに宦官として入り込むなど一つ間違えると皇帝を暗殺するために送り込まれた、と見られてもおかしくなかった。宦官の具瑗は張惲を逮捕して背後関係を調べ上げ、その背後に梁冀がいることがわかると、仲間の単超唐衡左悺徐璜らと共に果断に梁冀打倒計画を練り上げた。

159年、5人の宦官は梁冀の息がかかった役人や官僚以外の賛同を得ると、桓帝の許しも得て近衛兵を動かして、梁冀の豪邸を包囲させた。包囲されたことで全てを悟った梁冀は観念した。桓帝から勅使が送られ、大将軍の印綬を取り上げられた上で自殺を命じられ、既に観念していた梁冀とその妻・孫寿らは即座に自殺して果てたという。20年以上も専権を振るってやりたい放題した夫妻のあまりにあっけない最期であった。

梁冀の一族や孫寿の一族もことごとく逮捕されて、老若男女の区別なく全て処刑された。梁冀と親しい関係にあったり一党と見なされて処刑された者たちも数十人に及び、解任された者は300人を上回った。

梁冀の財産は全て没収されたが、その余りに膨大過ぎる量のため、天下の租税を半減することができたとまで言われており、いかに民衆から重税を取り立てていたかがわかる。こうして外戚は滅び、その後は宦官が何進が現れるまで権勢を振るうようになった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 董卓も梁冀と同じように少帝弁を廃して献帝を擁立しているが、梁冀が皇帝擁立をしていた当時若かった董卓はこの事例を習ったのかもしれない。
  2. 沖帝は梁妠が産んだ皇子ではない。しかしわずか3歳で梁冀が専横するには好都合な年齢で特に排除する理由も見当たらず、これはあくまで憶測の域を出ない。

出典[編集]