郭図
郭 図(かく と、? - 205年)は、中国の後漢末期の政治家・武将。字は公則(こうそく)[1]。袁紹・袁譚に仕えた家臣。
生涯[編集]
豫州潁川郡の出身[1]。はじめ故郷の太守である陰脩から計吏に推挙された[1]。後に袁紹に仕えて張導や高幹と共に冀州牧の韓馥を説得して袁紹に冀州を譲渡させるのに貢献した[1]。195年に献帝が長安から脱出した際、袁紹に献帝を迎えるように進言したとする説(『袁紹伝』)と、沮授が献帝を迎えるように進言したのに対して淳于瓊と共に反対したとする説(『後漢書』)があり、どちらが正しいのかは不明である。
200年の官渡の戦いでは田豊や沮授が慎重・持久戦を主張したのに対し、郭図は短期による積極策を主張したり、自らが主張した策が敗れるとそれを武将の張郃に押し付けて讒言して張郃を曹操の下に投降させたりするなど、愚策を繰り返した[1]。このため官渡の戦いでは袁紹軍は敗北し、202年に袁紹が死去すると後継者をめぐって袁譚と袁尚の争いが勃発し、郭図は袁譚を支持して袁譚が不利に陥ると曹操に投降させてその力を背景に袁尚に勝利する[1]。しかし曹操に再度背き、敗れて袁譚と共に処刑された[1]。
『三国志演義』では出ると負け軍師、疫病神として描かれている。官渡の戦いにおいては兵糧基地の鳥巣が曹操に襲撃されたので救援を主張する諸将に対して、曹操が留守にしている本陣を急襲するように進言して大敗すると、本陣攻撃を担当していた張郃と高覧に全ての罪を着せて讒言する[1]。袁紹の死後、袁尚と審配を酒宴に招いて殺害しようとしたが、両者にこれを見抜かれて負け戦となったので、袁譚に曹操への降伏を進言する[1]。しかし降伏した後、曹操の本心を見抜いて同じように曹操に降伏していた呂曠と共に曹操を討とうとしたが、呂曠はこの計画を曹操に密告し、袁譚と郭図は曹操に攻められて南皮城で楽進の矢を受けて射殺された[1]。