常高院

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常高院(じょうこういん、永禄13年(1570年) - 寛永10年8月27日1633年9月30日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性若狭小浜藩の藩主・京極高次正室。本名は浅井 初(あざい はつ)で、一般に「」「お初」の呼び名で知られる。また、幼名は御鐺(おなべ)、於那浅井三姉妹の一人。

父は近江国小谷城主・浅井長政、母は織田信秀の娘・織田信長の末妹)。姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)。兄に万福丸、異母弟に万菊丸。高次との間に子はなく、妹・江の娘で第2代征夷大将軍・徳川秀忠の四女・初姫(興安院)や氏家行広の娘・古奈(母は高次の妹)らを養女とし、側室の子で嫡子の忠高(母は山田氏)や高政(母は小倉氏)、また詳細不明の養子1名を始めとした血縁・家臣らの子女の養育に積極的に関わったとされる。後に養女の初姫と忠高を娶わせるが、この両者にも子はできなかった。

生涯[編集]

父は浅井長政で次女。母は市で、近江小谷城で生まれる。生まれた年に父の長政が信長と敵対し、姉川の戦いを経て天正元年(1573年)8月に長政は信長に攻められて自害し、初は母や姉、妹らと共に信長の庇護下に置かれる。しかし、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が死去し、その後の清洲会議を経て市が勝家と再婚することになると、初も母に従って越前に赴く。だが、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に敗れ、勝家は市と共に自害する。初は姉や妹と共に落城寸前に脱出して秀吉に庇護されている。

天正15年(1587年)、秀吉の仲介で浅井氏の旧主で、当時は秀吉の家臣であった京極高次に嫁いだ。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、夫の高次は当初は西軍に属していたが、裏では徳川家康と内通しており、関ヶ原の直前に東軍に寝返って近江大津城籠城する。このため、石田三成が差し向けた立花宗茂毛利元康らの攻撃を受けることになり、10日あまりの攻防戦の末に大津城は降伏開城となる。しかし、この大津城の戦いで名将・立花宗茂を引き付けて関ヶ原の本戦に参戦させなかったことを戦後に家康から大いに評価され、高次は若狭小浜藩主として復活することを許され、大幅に加増された。

高次は慶長14年(1609年)に死去しているが、この際に初は落飾して常高院と号した。高次との間に子女は無く、そのため高次の後継者となった側室の子である忠高を継子として養育した。また、淀殿の妹で江の姉だったことから、豊臣氏徳川氏の橋渡し役となり、主に豊臣氏の使者を務めながら両家の融和や調整に尽力した。慶長19年(1614年)に大坂の陣が始まり、1度は和睦となった際に豊臣方の講和の使者を務めている。慶長20年(1615年)の大坂の陣でも使者を務めて淀殿と秀頼の助命を願おうとしたがかなわず、大坂城が落城寸前に脱出している。また、密かに秀頼の息子の国松を庇護したりしていた。

豊臣氏滅亡後は妹の江の下で過ごし、京極氏の安泰を図るために江の娘・初姫を養女に迎えて徳川将軍家と縁戚関係を結ぶが、忠高は初姫と不仲でしかも子供に恵まれず、さらに初姫が死去する際には遊興にふけるなどしたため、秀忠の不興を買い、常高院が弁明している。

常高院は皮肉にも妹の江や義弟の秀忠より長命を保ち、寛永10年(1633年)8月27日に死去した。64歳没。

常高院が登場する作品[編集]

初は浅井三姉妹の次女であり、大坂の陣の際の活動などから浅井三姉妹を主題とした作品、大坂の陣を描いた作品に多く登場する。

小説
映画
テレビドラマ

外部リンク[編集]