司馬攸
司馬 攸(しば ゆう、248年 - 283年)は、西晋の皇族。字は大猷(だいゆう)[1][2]。小字(幼名)に桃符。諡は献。
司馬昭の3男で、西晋の初代皇帝・司馬炎の同母弟。他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・ 司馬広徳(広漢殤王)ら。生母は王元姫(王粛の娘)。妻は賈充の娘。子に遼東王・司馬蕤(景回)、北海王・司馬寔(景深)、斉王・司馬冏(景治)、広徳王・司馬贊(景期)。
生涯[編集]
伯父の司馬師に男子が無かったため、甥の司馬攸が養子となってその跡を継いで舞陽侯となる[1]。慎み深い性格で周囲から愛され、特に父の司馬昭からは寵愛されていた[2]。司馬昭はその寵愛、並びに司馬攸が兄の司馬師の家系を継いでおり、そちらが正当な家系であると考えていたので自分の後継者は司馬攸にしようとした[3]。しかし家臣の裴秀や山濤らの反対を受け、何曾も懸命に司馬炎の後継を支持したため、司馬昭は司馬攸の後継を諦めて司馬炎を後継者にした[3]。
265年に西晋が建国されると斉王に封じられ、さらに司空になるなど当初は重用された[2]。しかし司馬炎の皇太子である司馬衷が暗愚なため、周囲は賢明な司馬攸の後継を望み[3]、司馬炎との関係も次第に微妙になり、遂に佞臣の讒言を聞き入れた司馬炎により大司馬・都督青州諸軍事に左遷されて任地への赴任を強制されて事実上中央から締め出された[2]。この司馬攸の処置に対してはかつて同じような境遇にされた曹植の遺児の曹志、司馬炎の叔父の司馬駿などが反対したが司馬炎は聞き入れずに強行し、司馬攸は任地に赴く際に憤りのあまり病気になって死去した[2]。享年36。
司馬攸の死後、息子の司馬冏が跡を継いだが、彼は父のように賢明では無かった上に八王の乱で混乱を助長して最終的に殺害されている。
『三国志演義』では第119回で史実通り司馬昭が自分の後継者に司馬攸を選ぼうとしたが、賈充・何曾・山濤らの反対で実現しなかった[2]。