織田晴信
織田 晴信 おだ はるのべ/はるのぶ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
織田晴信、肖像画(狩野永徳)
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織田 晴信(おだ はるのべ/はるのぶ)は、戦国時代の武将。尾張国・三河国の守護大名で、出羽国・陸中国の一部の戦国大名。
戦国時代の最中、織田信定の嫡男として生まれて育ったが信定の次男の信秀に当主権を譲られ、若くして当主権を懸けた戦いに挑むが敗れ、膝を刺し出家して仏門に入る。信秀死後は織田信長に仕え、有力な戦いに参加するが波賀城攻めで大失態を起こし改易される。徳川家康に助けられて領地を与えられたが、羽柴秀吉の元で名を挙げて行くと、出世するごとに領地が増え、最大勢力時には出羽国一国と陸中国の一部を与えられる。秀吉死後は所領を息子の秀嗣に渡し、小早川秀秋の家臣になって関ヶ原の戦いにて西軍につき東軍を裏切る。その後秀秋に功績を称えられて佐和山城周辺を与えられるが、謀反を起こして若狭国に追いやられ、戦死した。
生涯[編集]
橋本家の養子へ[編集]
永正元年(1504年)4月16日、尾張国北部・片原一色城にて生まれる。父は織田信定で、母は月静院。織田信秀や織田信康は異母弟にあたる。幼名は樂太郎。片原一色城は元々、名門家橋本氏(鎮守府将軍など、天皇に長く支えた官吏の家系)の治めている城で、弾正忠家も治めていない地域であったため長年この城で生まれた理由が不明確だった。しかし近年、研究で月静院が夫の信定と関係が悪くなり、橋本氏のもとに追放された事が分かっている。
永正11年(1511年)2月27日、樂太郎は片原一色城城主・橋本一巴に養子として迎えられた。この事例により橋本 樂太郎を名乗る事となる。さらに永正13年(1513年)7月、真清田神社にて元服式を迎え、橋本 一康(はしもと ひとやす)を名乗った。尚、一康は「ひとやすみ」と読むこともある為、後に雅名を一休としたという。
森守城築城[編集]
永正17年(1520年)8月、元服した一康は生母の月静院が北畠晴具の側室となり、伊勢国に移動してから名字を織田に復帰させて、織田 一康とした。さらにその後、勝幡城の大普請に参加した時、二重櫓(後に天守と呼ばれる)の新規建造に尽力した事から、大永5年(1525年)、父の信定に祖父江70石を与えられる。
大永7年(1527年)6月15日、一康は祖父江70石に居城を構える為に普請を開始した。祖父江に存在する森守城は二の丸と本丸で分かれており、梯郭式である。二の丸の曲輪上には二の丸御殿が建っており、内部には足利義晴を迎える為の部屋・大広間・一康の自宅が存在していた。本丸には櫓台・御台所・大曲輪が存在した。
同年7月2日、一康は御台所内で側近の柳谷一茶らと初めて城郭の拡張に関する評定を行った。当時の御台所は殺風景であり、将軍を招くには不適切だとする点についての会談を行うものであり、結果的には御台所の拡張を行う事で一致した。7月7日、御台所の入母屋屋根上に千鳥破風付きの二階櫓を設置し、「三重櫓」と称した。評定に合った御台所の拡張を行うことができたが、7月10日に弟である信秀の家臣による放火により三重櫓は焼失した。その後三重櫓は再建されず、御台所の一階のみが7月28日に再建された。
勝幡城蹴鞠事件[編集]
大永7年の6月中に、父の信定は当主の座を次男の信秀に譲ることとした。本当なら長男の一康に当主の座を譲る筈なのだが、多数の理由があり正確な事は分かっていない。
- 居城の普請に夢中で次の後目のことを考慮していなかったという説
- 信秀が長年一康の自己中心的な行動に悩んでいたという説
- 敵対する橋本氏との関係悪化を防ぐ為という説
- 森守城に信定・信秀の宿泊室が無かったためという説
結局信定が信秀に当主の座を譲った事を知ったのは享禄元年(1528年)3月25日の事である。同日、信秀が当主に就任したことを記した手紙にはこう記されている。
織田一休殿
年ごろほど前に会ひたてまつりし神戸具盛なり
先日、君の父こそ斯波義ども宛にやりし文を持ちし使者を怪しければ臣捕らへき
文の旨には、大永七に父こそ当主の座退き、君の弟方に当主の座を譲りきとあり
弟方はおこたれり いまこそ反旗をおどろかすいそぎをたまひたまへ すくよかに
具盛
一康は激怒し、急いで信秀への言いがかりを尾張中を周り探った。結果、一康は五年かけても言いがかりを探ることができず、遂には享禄年間も過ぎていた。天文2年(1533年)7月8日、信秀は飛鳥井雅綱らを招いて蹴鞠会を開いた。一康はこの会に招かれなかった事に言いがかりをつけ、同年8月2日、宿泊先の矢合城太鼓櫓で戦の内容を家臣に打ち明けた。しかし兵力を集めるにも当時の一康には難があったため、7月8日に勝幡城で蹴鞠を見物していた13人を殺害し、財産を奪い取った。信秀はこの事を存じておらず、蹴鞠を約1か月に一回のペースで開催して、毎回見物人を殺害していった。
尾張国占領[編集]
天文7年(1538年)11月23日、一康の父・信定が死去する。その逝去と共に、同年11月26日に挙兵。尚、織田信友も遠距離ではあるが連携して挙兵している。一康はまず信秀の居城である勝幡城を攻撃した。筒井順昭や浅井亮政などの援軍も受け結果的に一康軍が勝利したが、勝幡城は焼土と化した。
その後、前田城にて前田一忠を二度の戦いで破り切腹に追い込んだり、山口教継を鳴海城にて破り追放に追い込む等の功績を残した。尚、鳴海城の戦いにて一康軍が慈照寺から移築した観音殿を燃やしたという話が通説であるが、近年の研究で観音殿が建っていた跡地(いわゆる土塁)には山口勢の本陣が立っていたという説が有能である。
一康勢は戦っていた知多半島付け根付近から南下して、その地の領主である佐治為景領に攻め込んだ。はじめ、一康は小さな丘陵地に大草城の全身となる砦を築造した。為景はこの行動に伴って大野城より出陣、両者は大草城の東に位置する矢田川沿岸にて合戦を行った(大野の戦い)。為景は大野城に追い込まれ降伏し、一康の家臣となった。
その後清洲城攻めに失敗して敗走するも、茶人の武野紹鴎らも参戦し、庄内川の戦い、三ツ井原の戦いにて破り、さらに天文8年(1539年)の一宮城の戦いで織田信秀を美濃国に追放した。これにより一康は尾張国全土を占領する事となる。
同年には足利義晴を奉じて上洛し、間も無く尾張天文検地を実施して尾張国の平定を確かなものとしたが、天文9年(1540年)に尾張国を土岐頼芸と信秀の連合軍によって取り返され、国盗りの継続は失敗した。