清洲城

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岐阜駅前の信長像

清洲城(きよすじょう)とは、現在の愛知県清須市朝日城屋敷1番地1にあった日本である。織田信長徳川義直居城となり、尾張政治経済交通の中心地となった。現在は清洲公園となっている。

概要[編集]

城跡は東海道本線によって南北に分断された形になっており、線路北の小丘が天守台の跡といわれている。江戸時代後期の文化2年(1805年)建立の清須城嘘碑と弘化年間(1844年 - 1848年)に建立された「右大臣織田信長公古城跡」の碑の2碑、さらに信長の銅像がある。また、外堀や土居跡などがわずかに城跡の面影を残している。

大正10年(1921年)に清洲公園として整備された。

歴史[編集]

室町時代[編集]

清洲は濃尾平野のほぼ中央に位置し、鎌倉街道伊勢街道との合流点にあり、中山道とも連絡する東西交通の要衝であった。そのため、この地に室町時代前期に尾張の守護大名となった斯波義重応永12年(1405年)に築城した。これにより、清洲城は以後、尾張支配の中心地となった。守護大名の斯波氏の時代は、清洲城は一重の堀をめぐらした程度の簡素な城だったという。

戦国・安土桃山時代[編集]

しかし斯波氏が没落し、その守護代である織田氏の一族からのし上がった織田信長が居城にしてからは城の規模が拡大し、城下町も大いに繁栄した。しかし、信長は天下統一目前で家臣の明智光秀の謀反に遭い、天正10年6月2日1582年6月21日)に本能寺の変により横死した。

信長の死後、その後継者ならびに信長の遺領配分をめぐる清洲会議はこの清洲城で行なわれ、この会議で尾張国主・清洲城主には信長の次男・信雄が就任した。信長没後、その家臣羽柴秀吉が台頭すると秀吉に対抗するために信雄は天守閣、小天守、書院、三重の堀を築き、城郭の規模も拡大し、この頃の城郭の広さは東西に1.6キロメートル、南北に2.8キロメートルの広さであった。しかし信雄は天正18年(1590年)の小田原征伐の後、秀吉が提示した駿河への移封を拒否したため、改易されてしまった。

以後、尾張は豊臣氏家臣に支配され、秀吉没後前後には秀吉の従弟で子飼いの家臣である福島正則が25万石で入っていた。

徳川政権以降[編集]

福島正則は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで大いに武功を挙げたため、戦後に安芸広島藩50万石に加増移封される。代わって清洲には徳川家康の4男・松平忠吉が60万石で入る。しかし忠吉は慶長12年(1607年)に28歳の若さで早世した。このため、家康の9男で忠吉の異母弟である徳川義直が62万石で入封[注 1]する。慶長13年(1608年)には、家康主導で居城および城下町名古屋に移す清洲越しを行ない、ここに清洲城は廃城となった。
これは清洲城の地が低湿地で水害に弱く、大軍を迎撃する際に不適当だったためといわれている。

アクセス[編集]

[編集]

  1. 当時、数え8歳。

外部リンク[編集]