土岐頼芸

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土岐頼芸(ときよりなり、旧字:土岐頼藝)とは、美濃国守護大名である。

生涯[編集]

美濃にて生まれる。兄に土岐頼政。1520年代、当時油売りであった斎藤道三をスカウトする。しかし頼政はこれを気に入らず、戦になった。結果的には頼芸が勝利したが、道三の父が戦で死亡した。その後、頼芸は謀反の疑いがあるとし、頼芸は配下の長井長弘を殺した。そこで長井氏は途絶えてしまうため、道三に継がせるよう命じた。道三は長井則秀(正式名称:長井新九郎則秀)と名乗った。1539年に守護代の斎藤利良が死ぬと、利良は子に恵まれなかったため道三に守護代職を継がせるよう命じた。こうして道三は斎藤利政(正式名称:斎藤左近太夫利政)と名乗った。しかしこの強引な態度に道三は次第に不満を感じたのか、下克上の精神が高まっていく。そして土岐頼満を自分の娘に嫁がせ、その祝いの宴会に招き毒を盛って殺した。頼芸、またその子である土岐頼次らが不審感を抱き始めた頃、頼芸親子は道三に身を追われ織田信秀朝倉孝景と同盟することになる。織朝連合軍が美濃に侵攻しようとすると、道三は和睦を持ちかける事となる。その和睦条件の一つとして頼芸を美濃に返還する事が明白になり、親子二人は美濃に帰り道三は出家した。しかし出家後、道三は突然として下克上を起こし、遂に大桑城の戦いで頼芸は国外追放され、近江国へと向かった。六角義賢の家臣になるも義賢が信長に負け、甲斐国へと亡命した。しかし1582年の織田軍による甲斐討伐で所属していた恵林寺を焼かれ、最期には稲葉一鉄の元へと向かった。一鉄はこれを大変喜び、晩年には文化を発達させながら、糖尿病により82歳で亡くなった。尚、武田信虎とほぼ同じ年齢で亡くなっている。

関連項目[編集]