井伊直亮
井伊直亮(いいなおあき、寛政6年6月11日(1794年7月7日) - 嘉永3年10月1日(1850年11月4日))は彦根藩の第14代藩主である。江戸幕府の大老で、井伊直中の子。井伊直弼の母親違いの兄である。
概要[編集]
井伊直中の三男で母は正室南部利正の娘であった。寛政6年6月11日、江戸で生まれる。 幼名は弁之助。兄の井伊直清が病弱であったため、18歳のとき、文化九年(1812年)父井伊直中から指名されて藩主となったとされる[1]。
天明4年11月28日(1785年1月8日)、大老に就任する。官位は正四位上行左近衛権中将兼掃部頭。しかし、天保12年5月15日(1841年7月3日)、大老職を辞し、後任を老中の水野忠邦に託し、彦根藩に戻った。
業績[編集]
藩内では洋書の購入や蘭学者の登用などの西洋知識の導入を推奨し、雅楽・能楽などの多彩な文化的教養の推進を図った。弘化3年(1846年)に弟(直中の十一男)の井伊直元が早世したため、その弟(井伊直中の十四男)で国元の井伊直弼を代わって養嗣子とした。 嘉永3年(1850年)10月1日、井伊直亮は彦根にて没する。享年57歳。遺骸は清凉寺に葬られた。後継は井伊直弼が継いだ。
人物[編集]
晩年は極端な専制的傾向にあったとされる。実父の井伊直中はこの性格を見抜き、「書状一封」を家老衆に託した。家督相続については「嫡妻の子」であるため、直亮の「賢愚の考も致し申さず」、嫡子願を江戸幕府に出し、家督まで譲ったと述べる。井伊直中は長男井伊直清をすでに嫡子として幕府に届け出ていたが、文化2年(1793年)3月、井伊直清が虚弱との理由を付けて廃嫡し、井伊直亮を嫡子としたと述べている。そして直亮について、勇気と決断力の不足、家来の信頼を得ていないこと、怒りを露にする直情、隠し事をすること、善悪の判断ができないこと、親の言うことを聞かないこと、物言いが不分明であることを挙げている。さらに井伊家の将来について、井伊直中がいなくなり、家老衆も井伊直亮より年若になったら、どのような政事になるか計りがたく、直中の死後はこの遺言状をもとに藩主井伊直亮を隠居させるよう家老衆に指示した[2]。実際には、井伊直亮は亡くなるまで藩主の地位を維持した。
注・参考文献[編集]
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