三河海東記
ナビゲーションに移動
検索に移動
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は不明。成立年代については天正18年(1590年)8月の徳川家康の江戸入りで終了していること、家康を大納言と称していることから、結構早くに成立した可能性が指摘されている。江戸時代には徳川史観から否定的に見られていた豊臣秀吉の武勲をよく賞賛しているため、秀吉の存命中に成立した可能性がある。
別称は『三河海道記』(みかわかいどうき)。海東は海道と同義語であり、この著が東海道を支配していた家康の時期に当たることからの命名だと推定される。
内容[編集]
全3巻で、上中下の3巻に分かれている。
- 上巻 - 徳川氏の先祖から家康の父祖の事績、そして桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて三河国で自立するまでが描かれている。
- 中巻 - 信長との和議・同盟から、三河一向一揆、三河平定、今川氏真や武田信玄との戦い、二俣城の戦いまでが描かれている。
- 下巻 - 三方ヶ原の戦いから信玄の死去、長篠の戦い、武田征伐、本能寺の変、小牧・長久手の戦い、関東入りまでが描かれている。
この著は、以下の点から史料の信頼性に疑問点が非常に多い。
- 家康の曾祖父・松平信忠と祖父・松平清康が兄弟と表記されている。
- 家康の父・松平広忠が妻の伝通院(家康の生母)と離縁したのは天文12年(1543年)のはずだが、この著では天文16年(1547年)になっている。
- 桶狭間の敗戦後、家康が三河の大樹寺に入った時点でいきなり「家康」と改名したことになっている。また、信長が1000の軍勢で攻めてきて、撃退したことになっている。
- 信長との同盟が上記の直後になっている上、会盟した場所が熱田になっている[注 1]。
- 三河一向一揆の原因が、家康の厳しい御用金によるものとされている[注 2]。
- 家康の遠江国侵攻が永禄9年(1566年)、掛川城攻略が永禄10年(1567年)になっている[注 3]。浜松城落城は永禄11年(1568年)2月になっている。
- 信玄の二俣城攻略が元亀2年(1571年)9月になっている[注 4]。
- 三方ヶ原の戦いが元亀3年(1572年)12月「26日」になっている[注 5]。
- 信玄が野田城の戦いで狙撃されて兜に銃弾が命中して衰弱死したとある。場所においても甲斐国に帰国して死に至ったとされている[注 6]。
- 信康事件が天正2年(1574年)に発生したことになっている。信長の娘の徳姫の名が「月山御前」になっている。しかも理由が、信玄没後に長篠城の奥平氏を寝返らせるため、信長が家康に娘を奥平信昌に嫁がせるように勧め、信康がそれに強硬に反対して信長と対立。そのため月山御前を離別してしかも自害に追い込んだので、激怒した信長が家康に信康の処分を命じたことになっている[注 7]。
- 秀吉との和睦交渉の際、家康の3男・秀忠に秀吉の「妹」を娶せたことになっている[注 8]。