二俣城の戦い

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二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)とは、以下の戦いを指す。甲斐武田氏徳川氏との間で争奪戦が行なわれたことで知られている。

概要[編集]

1510年の戦い[編集]

今川氏親の家臣で二俣城主の二俣昌長は、永正7年(1510年)に遠江国の勢力奪回を目指す斯波氏に攻められた。しかし、昌長は自領の農民も城内に入れて徹底抗戦したため、斯波軍は敗北して撤退した。斯波軍は永正7年(1510年)5月4日に夜襲をかけたが、敗れたという。この際、昌長は籠城に協力した小俣・杉丸の百姓に対し、棟別銭などの諸役を免除する旨を約束したという(『遠江国風土記伝』)。

1572年の戦い[編集]

元亀3年(1572年)、織田信長と対立する足利義昭本願寺顕如の要請を受けた甲斐国武田信玄は、遂に西上作戦を開始。まずは信長の同盟者であり、東の防壁となっていた徳川家康を攻めた。徳川領に侵攻した信玄は、遠江北部における徳川方の諸城を落としていくが、二俣城を守る中根正照は信玄に対して徹底抗戦する。二俣城は遠江北部における徳川方の要衝であり、この城を放置して家康の居城・浜松城に向かうことは危険なため、信玄はこの城を攻めることになる。

この間の時系列が11月19日付の朝倉義景宛信玄書状にあるが、それによると10月3日に甲府を出陣し、10月10日に遠江国に侵攻し、そして徳川領で暴れまわって二俣城を攻撃しているとある。

三河物語』によると、信玄の4男・武田勝頼は二俣城を「乗り落とさん」と述べてひと揉みに落とそうとしたが、重臣の山県昌景馬場信春が「無理攻めをして落ちる城ではありません。水の手を壊して落としましょう」と進言し、力攻めでは無く水の手を切る作戦が採用されることになったとある。実は、二俣城には井戸が無く、天竜川に井楼を使って直接水を汲み上げる方法を取っていた。そこで、勝頼は上流から筏を流してその井楼を破壊する事によって水の手を断った。

水の手を断たれた中根は、人質を交換した上で信玄に開城を申し出て、浜松城に退去した。この攻防戦の際、家康は後詰できず浜松に籠城したままであった。信玄は、家臣の依田信守依田信蕃父子を入れて守らせ、浜松城に向かうことになった。

1575年の戦い[編集]

元亀4年(1573年)4月に武田信玄は信濃国駒場で病死した。これにより、武田軍の西上作戦は瓦解したが、跡を継いだ勝頼は織田信長・徳川家康の所領に侵攻を続けた。

しかし天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで勝頼は信長・家康連合軍に大敗する。この大敗で武田軍は山県・馬場・内藤昌豊真田信綱真田昌輝といった名将の大半を失って一気に戦闘力を落とした。この好機を家康は逃がさず、二俣城奪回の軍勢を興した。

家康は、二俣城を正攻法で落とすのは犠牲が大きくなると考え、まずは毘沙門堂砦・鳥羽山城・蝦原砦・和田ヶ島砦の4つの付城を築いて二俣城に包囲体制を敷いた。さらに6月24日には光明寺城を落として二俣城の孤立化が深まった。

これに対して二俣城では、依田信守・信蕃父子が徹底抗戦したが、その信守が6月29日に城内で病死するという不運にも見舞われた。さらに7月になると武田方で遠江北部の国衆である天野景貫が家康に敗れ、8月24日には武田方の諏訪原城まで陥落した。しかし、信守の跡を継いだ信蕃はあくまで徹底抗戦した。

この間、武田勝頼は長篠の敗戦から軍勢の再建を第一としていたこと、信長が嫡男織田信忠を東美濃国岩村城に派遣して秋山虎泰を攻めていたことなどから、援軍を送る余裕は無かった。『依田記』によると、勝頼は信蕃と城兵を助けるため、信蕃に対して「家康に二俣城を開城して退去せよ」と命令したが、信蕃はこれを聞かずになおも抵抗を続けた。理由は開城命令が勝頼の直書ではなかったことから、敵の謀略と疑ったためという。

12月中旬になっても信蕃は抵抗を続けたが、その間に城内の兵糧はとうに尽いてしまっていた。このため、家康と信蕃の間で和睦交渉が進められ、家康は大久保忠世榊原康政を人質に、信蕃は依田善九郎依田源八郎を人質として交換した上で、信蕃が二俣城を12月23日に開城するということでまとまった。ところが23日当日、大雨が降ったことから信蕃は「雨降りに蓑笠で城を出るのは見苦しいため、晴れの日まで猶予を頂きたい」と申し出て家康は許可し、12月24日に晴れたので信蕃は開城して二俣から退去。二俣川においてお互いの人質を返している。

信蕃は甲斐国に戻らず、なおも抵抗するため高天神城に入城した。家康は二俣城に重臣の大久保忠世を入れて守らせた。