東海村JCO臨界事故

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東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年9月30日茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オー住友金属鉱山子会社。以下「JCO」)の核燃料加工施設で発生した原子力事故臨界事故)である。

日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。原爆投下を除けば、福島第一原発メルトダウン水素爆発事故が起こるまでは、日本で最悪の原子力災害であった。

概要[編集]

9月30日、JCO施設作業員が、ステンレスのバケツを使ってウラン溶液を容器に入れる作業をしていたところ、入れ過ぎてしまい、原子炉外においてウランが臨界状態を起こした。

α線β線γ線の他、中性子までもが放出され、作業員及び、現場近くにいた人たちが被曝した。事故自体は翌日10月1日午前6時15分頃(事故から約20時間後)に臨界が終息することで一応の終了は見たが、大量被爆した作業員3名のうち、2人が急性放射線症で死亡し、救助活動した消防隊員や周辺住民など合わせて660名ほども被爆が確認されている。

この事故はそれまで安全神話で包まれていた原子力業界に警鐘を鳴らした。この事故を機に原子力災害対策特別措置法が制定され、事故が起きた際の対応拠点オフサイトセンターの設置が全国で進められたが、抜本的な解決策は見られずにその後も多くの原発事故を引き起こし、平成23年(2011年)の東日本大震災による福島第1原発事故につながってゆくことになる。

察しのいい方はもうわかったであろうが、原因はJCOのずさんな作業工程管理である。核燃料製造のためのウラン溶液混合作業で、「バケツを使ってウラン溶液を運ぶ」という効率優先の不適切な手法を用いたことにより、臨界が発生したものと見られている。この臨界が発生した際、目撃者によると「フラッシュをたいたような青い光が見えた」とされ、この青光は核分裂で発生するチェレンコフ光」と見られている。

2003年3月3日、茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地方検察庁が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長の6名に執行猶予付き有罪判決、JCOに罰金100万円の判決がそれぞれ言い渡された。水戸地方裁判所は、「臨界事故を起こした背景には、長年にわたって杜撰な安全管理体制下にあった会社の企業活動において発生したものであり、その安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない」とし、さらに、「臨界に関する全体的な教育訓練はほとんど実施されておらず極めて悪質」と判断した。

影響[編集]

事故当日はプロ野球中日ドラゴンズ明治神宮野球場で11年ぶり5度目のセ・リーグ優勝を決めている。翌10月1日の新聞朝刊では読売新聞朝日新聞など各全国紙が足並みを揃えてトップニュースでこの事故を伝える中、中日新聞は6大紙(読売・朝日・中日・毎日新聞日本経済新聞産経新聞)で唯一第1面及び社会面の大部分がこの事故関連の記事と中日優勝関連記事で占められることとなった[1]

翌日のひたちなか市附属特別養護学校が休校になり校内実習が1日短縮になり小学2年生の校内宿泊も中止となった。

テレビ東京ではその日の夜『ポケットモンスター』が放送される予定だったが、映像表現の関係で休止し『ヨシモトムチッ子物語』に差し替えた(放送予定の以降の内容は翌週にスライド)。

報道の終息と警察不祥事報道[編集]

この臨界事故は、最初は大きく報道されたのだが、突然、全くと言って良いほど報道されなくなってしまった。

臨界事故の直後、それまでマスコミタブーだった警察不祥事が大きく報道され、報道は警察不祥事一色になってしまったのである。

その直後、大きく報道された警察不祥事は以下の二つである。

  • 神奈川県警の一連の不祥事
  • 新潟県で行方不明になっていた少女が発見保護され、監禁していた男が逮捕されたのだが、大事件が起きたにも関わらず、新潟県警本部長は呑気に賭けマージャンで遊んでいた問題。

JCO臨界事故を隠ぺいするためにマスコミに解禁されたのは新潟県警と神奈川県警の不祥事だけのようだが、それらの報道は、桶川ストーカー殺人事件での埼玉県警による警察不祥事が明るみに出る切っ掛けとなった。

事故の関連経歴[編集]

  • 1999年
    • 9月30日午前10時35分 - 茨城県東海村の核燃料加工会社JCO東海事業所で臨界事故が発生。
    • 9月30日午後3時 - 東海村が350メートル圏内の住民に避難を要請。
    • 9月30日午後10時30分 - 茨城県が10キロ圏内の約31万人に屋内退避を要請。
    • 10月1日午前6時15分 - 臨界状態が停止する。
    • 10月1日午前9時20分 - 原子力安全委員会が臨界終息を発表。
    • 12月13日 - 原子力災害対策特別措置法、並びに改正原子炉等規制法が成立する。
    • 12月21日 - 被爆した社員男性A(当時35歳)が死亡。死因は事故による急性放射線障害で、日本国内で原子力事故において初の死亡者であった。
  • 2000年
  • 2003年
    • 3月3日 - 水戸地裁が6人を執行猶予付きの有罪判決を下し、JCOに対して罰金100万円の判決を下し、これは後に確定する。

脚注[編集]

  1. 『中日新聞』1999年10月1日付 1, 38, 39面

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • NHK「東海村臨界事故」取材班 『朽ちていった命 - 被曝治療83日間の記録』 新潮社〈新潮文庫〉、2006年10月。ISBN 978-4-10-129551-0

外部リンク[編集]