桶川ストーカー殺人事件

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桶川ストーカー殺人事件(おけがわストーカーさつじんじけん)とは、女子大学生が元交際相手の男を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年平成11年)10月26日埼玉県桶川市JR東日本高崎線桶川駅前で殺害された事件。埼玉県警の捜査の杜撰さが浮き彫りになった事件である。

概要[編集]

女子大生(A 当時21歳)が元交際相手(B 当時27歳)とその兄(C 当時32歳)が雇った男(D 当時34歳)によって殺害された。被害者がこれらのグループから監視・中傷・脅迫・プライバシーの侵害等のストーカー行為を受けていたために、「ストーカー殺人事件」と呼ばれることが多い。またこの事件がきっかけとなって、「ストーカー規制法」が制定された。

この事件は警察埼玉県警察)の怠慢な捜査も発覚した事件でもある。被害者とその家族は、幾度となく、所轄の埼玉県警上尾警察署(以下上尾署)に相談し告訴状を提出していた。しかし上尾署側は捜査をせずにこれを放置し、被害者の家族に告訴の取り下げを要求した。

写真週刊誌FOCUS』および報道テレビ番組『ザ・スクープ』が行った調査報道により、上尾署が被害者と家族からの被害相談を極めてずさんに扱っていたことが明らかとなり、警察不祥事としても注目され、警察から3人の懲戒免職者を含む15人の処分者を出した。また、告訴状改竄していたことも内部調査で明らかになった。最後に埼玉県警が不正捜査を認めて謝罪することとなったが、遺族が埼玉県警を相手に国家賠償請求訴訟を起こすことになった。改竄に関わった署員は懲戒免職になり、のちに有罪判決を受けた。

後の12月に発生する栃木リンチ殺人事件や2000年1月に解決した新潟少女監禁事件と合わせ、それまで希薄だった、日本の警察という組織権力に対する、非難・バッシングが顕在化していくきっかけとなった事件の一つである。

また、マスコミによる執拗な報道合戦・被害者に関する事実無根な情報のでっち上げなど、被害者と遺族への報道被害が起こった事件として、報道のあり方についての参考例としても取り上げられる。

本件の発生が契機となり、2000年に「ストーカー規制法」が制定された。

経緯[編集]

ストーカー行為・殺人[編集]

1999年1月に被害者の女子大生 (A) が友人と二人で遊びに来ていたゲームセンターで加害者の男 (B) と知り合い、やがて交際が始まった。しかしBはAに偽名を使ったうえに年齢も3歳サバを読み、職業も外車ディーラーと偽り接近した。

Bの正体は東京消防庁消防士が本業である兄(C)と共同で東京都内で東京都公安委員会から許可を得ずに(モグリで)ファッションヘルス形態の風俗店を7店舗も経営する裏社会実業家であった。なおBとCの父親も公務員であることが報じられている。

しかし、同年2月から3月にかけてAはBが嘘をついていると勘づいたが、Bの本名は終始知る由が無かった。他にも

  • 一方的に高価なプレゼント(数十万円もするバッグや洋服、ロレックスの腕時計など)を贈り、Aが「こんな高いものは受け取れない」と拒絶すると暴力を振るう。
  • 30分おきに携帯電話に連絡するなどAの行動を監視し、「今、犬の散歩をしている」と答えると、「俺(B)を放っておいて犬の散歩とはどういうことだ?その犬を殺すぞッ!!」と脅す。
  • 携帯電話に出ないと、番号を教えていないはずのAの自宅や友人にまで電話をかけてくる。

などの異常な行動を見せたBに対して、恐怖心や不信感を抱いたAは別れ話を切り出した。しかしBは「お前は2000年を迎えられない」「父親をリストラさせてやる」「家族を滅茶苦茶にしてやる」などと、A本人はおろか、家族にも危害を加える旨の脅迫をし、交際の続行を強要。それ以降、ストーカー行為が始まる。

この頃からAは身の危険を感じ、遺書を用意したり、周囲の友人に「私は殺されるかも知れない」「(もし私が殺されたら)犯人は絶対にB」と話すなどしていたが、ストーカー行為に耐え、恐怖と闘いながら殺害される当日朝まで大学に通い続けた。

6月14日、BとCらが上尾市内のAの自宅に押しかけ、Aを脅迫現金500万円を要求するも、父親に追い返される。

6月15日、Aと両親が、BとCの脅迫をした内容を秘密録音していたテープを所轄の埼玉県警上尾署に持ち込み、被害の相談をする。しかし「民事不介入」を理由に上尾署は全く取り合わなかった。これ以降Aの家に頻繁に無言電話がかかってくるようになる。また同日、CがD(Bが経営する風俗店の雇われ店長) にAの殺害を依頼する。

7月13日、Aの自宅周辺と大学・父親の勤務先に、事実無根の誹謗中傷のビラが約300枚貼られる。

7月29日、Aが犯人を名誉毀損で上尾署に告訴。署員は告訴状を受け取るも「(ビラに対して)これはいい紙を使っていますね。」「試験(ちょうどAの通う大学の試験期間であった)が終わってからでもいいのでは?」など、いい加減な対応に終始。

8月23日・24日、Aの父親の勤務先などに約800通もの事実無根の誹謗中傷の手紙が届く。

9月7日、上尾署員が告訴状を被害届改竄。9月21日、上尾署員がAの母親に対して「一度取り下げても、もう一度告訴はできますから」と嘘を吐き(告訴状を一度でも取り下げたら同じ内容で再び告訴することはできない)、告訴取り下げを要請する。

10月16日、深夜、Aの自宅前に大音響を鳴らした車2台が現れる。

10月26日、Dらは午前9時からAの家前でAの行動を見張り、大学に向かうため12時に自転車で家を出発し桶川駅前の自転車置き場で降りたAをナイフで左胸や脇腹を刺して殺害。逃亡した。

同日、上尾署に捜査本部が設置されたが、記者会見にて事件当時のAの服装や所持品について「ブランド物のバッグ」「厚底ブーツ」「黒いミニスカート」など、報道陣に対して意図的に詳しく説明した。これ以降、各報道関係者から、被害者であるAにも非があると受け取れる報道がしばらく続くことになる。

犯人追跡[編集]

1999年11月、写真週刊誌フォーカス』に、桶川事件の記事が掲載される。内容は被害者Aではなく、ストーカーグループの異常さを浮き彫りにした調査報道だった。この後も、フォーカス誌独自の立場で継続的に事件を扱う。

12月、フォーカス誌の清水潔が、独自に殺害犯人グループを特定し、その写真をフォーカス誌に掲載する。12月19日、フォーカス誌から仲介人を介して情報を得た埼玉県警察は、Dを逮捕し、翌20日には、Cを含むA殺害に関わった3人を殺人容疑で逮捕。しかし事件の全容を知る立場のBは逃亡する。

2000年1月16日、埼玉県警察は殺害実行犯を含む中傷に関わった12名を名誉毀損容疑で逮捕し、Bを指名手配する。清水潔記者はBを追って北海道へ向かう。

同年1月27日、Bの死体が北海道の屈斜路湖で発見される。遺書があったことから自殺と判断された。遺書は自身の両親宛で保険会社から死亡保険金を受け取るよう書かれていた。Aやその家族に対する反省、謝罪の言葉は書かれていなかった。

殺人罪の刑事訴訟[編集]

2001年7月17日、殺害実行犯のDに懲役18年、見張り役の人物に懲役15年の実刑判決が言い渡される。

2002年6月27日、車の運転手役の人物に懲役15年の実刑判決が言い渡される。

2003年12月25日、主犯のCに無期懲役判決が言い渡される。2005年12月20日、Cに対する刑事裁判の控訴審判決で、東京高裁は1審・さいたま地裁の判決を支持し被告人側の控訴棄却。2006年9月5日、最高裁第2小法廷はCの上告を棄却、無期懲役が確定する。

また、誹謗中傷ビラについて名誉毀損罪で8人が立件された。

なお、Aの交際相手であり自殺したものの事件の根幹となる原因をつくったBについては、生存者の刑事訴訟において名誉毀損罪の共犯が認定されたが、殺人罪の共犯とは認定されなかった。

捜査怠慢の刑事訴訟[編集]

2000年1月、フォーカス誌にて埼玉県警上尾署の怠慢な捜査体制、告訴状取り下げの要請などが記事になる。3月7日、事件が国会で取り上げられ、議員が警察の捜査怠慢を追及した。3月4日にはテレビ朝日ザ・スクープ』で事件が放送される(フォーカス誌を読んだ鳥越俊太郎が取材)。

4月6日に埼玉県警は「調書改竄」や「捜査放置」を認め謝罪し、署員の処分を決定した。

  • 署員3名 - 懲戒免職
  • 埼玉県警本部長 - 減給10%・1カ月
  • 県警本部刑事部長 - 減給5%・1カ月
  • 上尾署長 - 減給10%・2カ月
  • 上尾署刑事生活安全担当次長 - 減給10%・4カ月
  • 上尾署刑事生活安全担当次長 - 減給10%・1カ月

9月7日、告訴状の改竄に関わっていた元署員3名が虚偽有印公文書作成容疑で執行猶予3年の懲役刑の有罪判決を受けた。

国家賠償請求訴訟[編集]

2000年12月22日、遺族が埼玉県(埼玉県警)に対して、国家賠償請求訴訟を起こす。行政裁判になると態度を一変、埼玉県警は「この事件はストーカー事件ではない」、「単なる男女の痴話喧嘩」、「Aの遺書は若い女性特有の空想」などと反論した。

  • 2003年2月13日、埼玉県警察署協議会代表者会議での席上、県警本部長が「殺人事件の予見可能性は持ちようがなかった」「3年前に非を認めたのは警察庁の指導があったから」「原告もあまり金を取れないと、多額の賠償金が取れると思ったのにこれでは話が違う、高裁に控訴しよう、となるのではないか」などと発言し非難を浴びる。
  • 2003年2月16日、埼玉県(埼玉県警)に対する国家賠償請求訴訟の判決で、さいたま地方裁判所は、名誉毀損罪の捜査について怠慢であったことを認め計550万円の支払いを命じたが、「捜査と殺害の因果関係」は否定した。遺族は翌日控訴し、その後埼玉県(埼玉県警)側も控訴した。
  • 2005年1月26日、埼玉県(埼玉県警)に対する国家賠償請求訴訟の判決で、東京高等裁判所は1審・さいたま地方裁判所の判決を支持し、双方の控訴を棄却。
  • 2006年8月30日、最高裁判所第2小法廷は埼玉県(埼玉県警)の上告を棄却。これにより2審の判決が確定した。

民事訴訟[編集]

2000年10月26日、被害者の命日に遺族が殺人や名誉棄損に関与した加害者ら計17人に対し、損害賠償を求め提訴

2006年3月31日、加害者やその家族に対する損害賠償請求訴訟の判決で、さいたま地裁は合計で約1億250万円の支払いを命じる[1]

事件の根幹の原因をつくったBは名誉毀損罪での指名手配中での逃亡中に死亡して刑事訴訟で殺人罪の共犯と認定されなかったが、民事訴訟では殺人犯らはBを介さないとAとの接点がないことや、BのAに対する攻撃性から、BはAについて殺人の責任があることが認定された。

影響[編集]

  • 2000年10月7日、埼玉県警警視の住むマンションの玄関扉外側から出火。県警は別の脅迫容疑で逮捕されていた巡査部長放火容疑で再逮捕した。警視は桶川事件当時の上尾署刑事生活安全担当次長で、告訴取り下げや告訴状改竄を直接、間接に指示し得る立場にあった人物である。また逮捕された巡査部長は桶川事件当時上尾署の刑事であり、さらに最初の逮捕容疑となった脅迫事件の被害者も当時の上尾署員だった。容疑者刑事から交番勤務に左遷されていたことから、恨みによる犯行とされた。一方で容疑者は、桶川事件では最初に被害者の女子大生に応対し、相談内容の深刻さに同情して当初は熱心に話を聞いてくれていたという。容疑者は有罪判決を受け服役中に自殺した。またこの放火事件への対処に不信感を表明した別の刑事ものちに自殺している[2]
  • 警察の「民事不介入」名目の怠慢が事件を引き起こしたとされ、国の警察刷新会議は2000年、この原則にとらわれないよう提言を発表したが、その反動で警察による行き過ぎた民事介入が顕著化していると、月刊誌『ZAITEN』2009年4月号が指摘した。

テレビ放送[編集]

関連書籍[編集]

  • 清水潔 『桶川ストーカー殺人事件 - 遺言』 新潮文庫 ISBN 4101492212
  • 清水潔 『遺言 - 桶川ストーカー殺人事件の深層』 新潮社 ISBN 4104405019
  • 鳥越俊太郎+取材班 『桶川女子大生ストーカー殺人事件』 メディアファクトリー ISBN 4840101590
  • 鳥越俊太郎・小林ゆうこ 『虚誕 - 警察に作られた桶川ストーカー殺人事件』 岩波書店 ISBN 4000225227

警察の捜査・職務怠慢が指摘されている事件・事故[編集]

関連する事件・事故[編集]

類似しているストーカー殺人事件[編集]

脚注[編集]

  1. 平成12年(ワ)第2324号損害賠償請求事件
  2. 週刊文春2003年5月29日号『「消えない謎 桶川ストーカー事件」捜査員連続自殺の怪』

外部リンク[編集]