南松院
ナビゲーションに移動
検索に移動
南松院(なんしょういん)は、山梨県南巨摩郡身延町下山にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は正福寿山。本尊は釈迦如来。
概要[編集]
この寺院は武田信玄の家臣で娘婿であったこの地の領主である穴山信君が、母の南松院殿が永禄9年(1566年)4月25日に死去した際、同年のうちに桃隠和尚を開山にして創建した寺であると伝わる。南松院殿は戒名を南松院殿葵庵理誠大姉と与えられている。ちなみにこの南松院殿は武田信虎の娘で信玄の姉にあたり、穴山信友に嫁いだ女性である。
なお、この寺には寺宝として信玄の弟である武田信廉の筆と伝わる絹本著色穴山信友夫人(南松院)像、南松院開山の絹本著色桃隠和尚像、天竜寺の策彦周良の賛のある紙本著色渡唐天神像が山梨県の文化財に指定されている。
なお、信君は天正10年(1582年)3月の織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐で義弟の武田勝頼を裏切っているが、同年6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、信君も山城宇治田原で百姓一揆に襲われて落命した。
信君の没後、息子の穴山勝千代は早世して穴山氏は没落する。信君には下山殿という養女がおり、彼女は家康の側室になって武田信吉を産んだ。信吉は後に常陸水戸藩の大名にまでなるが早世する。後に水戸藩は信吉の異母弟・徳川頼房が領するが、このため水戸と縁が深かった南松院は頼房から厚い庇護を受けて水戸殿内寺と称し、寺院の修築や造営においては全て水戸徳川家によって行なわれたという。幕末の慶応2年(1866年)に火災に遭い、明治時代になると水戸徳川家の庇護も受けられなくなって寺運は衰退した。