西京司

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西 京司(にし きょうじ、1926年 - 1978年)は、日本のトロツキスト。筆名・大屋史朗[1]。大屋史郎と表記されることもある[2]日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の多数派連合の理論的指導者[3]

来歴[編集]

戦後すぐに日本共産党に入党。50年問題の際に国際派に所属して除名された。六全協後、共産党に復党し、京都大学職員組合細胞で活動した[1]。1957年1月、内田英世・富雄兄弟、太田竜黒田寛一らが第四インター日本支部準備会として「日本トロツキスト連盟」を結成、西は同年4月に加入した[4]。当時日本共産党京都府委員という重要なポストを占めていたため影響力は大きく[2]、人脈を通して立命館大細胞を中心に関西に組織的基盤を広げた[5][6]。1957年12月、トロ連は「日本革命的共産主義者同盟」に改称した。トロツキストの立場から共産党内部の党内闘争にも影響を与え、日本共産党第7回大会に向けた党章論争では、1958年1月の日本共産党京都府委員会『府党報』に「プロレタリア世界革命」や「プロレタリア独裁-暴力革命」を主張した「レーニン主義の綱領のために」(沢村義雄名義)が掲載され[4]、第7回大会の大会代議員権を獲得している[1]

革共同は1958年7月、トロツキズムを掲げパブロ派を支持する太田派と、トロツキズムは批判的に摂取すべきとする黒田派が対立し、太田派は革共同を脱退して「関東トロツキスト連盟」を結成した(革共同第一次分裂)[5]。このとき西はキャノン派を支持していた[7]。1959年8月、キャノン派路線の下第四インターナショナルへの参加を目指す西ら多数派の関西派(書記局派、58年12月結成[8])と、「反帝・反スタ」を掲げ「革命的マルクス主義者グループ」を名乗る少数派の黒田派(探究派)が対立し、「スパイ未遂事件」をきっかけに黒田派は「革命的共産主義者同盟全国委員会」を結成した(革共同第二次分裂)[9][6]

革共同関西派の指導者として、60年安保闘争では全学連反主流派と行動を共にした[1]。太田の「関東トロツキスト連盟」は「日本トロツキスト同志会」「国際共産主義労働党」を経て、「第四インターナショナル日本委員会」に改称したが、59年8月には分解した[8]。安保闘争後の1960年11月、革共同関西派と第四インターナショナル日本委員会の流れが合体して、「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」を結成した。しかし、日本社会党社会主義青年同盟への加入戦術をめぐって内部対立が起き、1961年9月、太田派、西・岡谷派、青年インター派の3つに分裂した。1965年に太田派と西・岡谷派は再び合体(純トロ派・純トロ革共同、太田竜委員長・酒井与七書記長)したが、翌年太田のボルシェビキ・レーニン主義派と西の多数派連合に分裂した[8][10]。第四インターで多数派を形成する西らの中央書記局派の指導により、1967年11月に「社青同学生班協議会プロレタリア国際主義派」が結成され、1969年3月に学生団体「国際主義共産学生同盟」となった[8]

1969年5月31日、大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む約210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠するという事件が発生する。高校生の活動を非難する西、岡谷進香山久ら関西派と、評価する酒井、小島昌光ら中央政治局が対立。酒井らが多数派を形成して第四インターの指揮権を掌握し[11][12]、西は70年代半ばには指導者の位置から退いていたとされる[1]

1975年に知識人が内ゲバの停止を呼びかけた「革共同両派への提言」の発起人の一人[13]

人物[編集]

共産党所感派の「極左冒険主義」を批判する中でトロツキーを読み始めたという経験を持ち、京都府学連による1958年の勤評反対闘争での警察との衝突を「極左冒険主義」として批判[14]、60年安保闘争では「労学提携」の立場から三池闘争をより重視した[15]。一時的に塩川喜信委員長の下で全学連の主導権を握った第四インター派が、急進主義的なブントに全学連の主導権を奪われ、70年代半ばまで少数派に留まったのは、西ら関西派指導部の「反急進主義」「労学提携」の立場が急進的学生運動の高揚の中で「右派」と捉えられたためという見方も存在する[14]。1969年、高校生運動の評価をめぐり関西派と中央政治局が対立。学生インターは中央政治局を支持し、その後、急進的学生による指導部が形成された。国際的にもこのような対立が起きており、1969年4月の第四インターナショナル第九回世界大会では、五月革命文化大革命などの評価をめぐり論争が展開された。西は文革と紅衛兵を否定して劉少奇派を相対的に評価する立場からこの論争に参加した[16]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『レーニン主義の綱領のために――57年日本共産党党章草案への若干の原則的批判』 沢村義雄著、新時代社(国際革命文庫)、1972年
  • 『日本トロツキズム運動の形成――西京司論文集』 柘植書房、1976年

訳書[編集]

  • 『トロツキー選集 第10巻 第四インターナショナル』 トロツキー著、対馬忠行編、大屋史朗ほか訳、現代思潮社、1963年/現代思潮新社、2008年
  • 『トロツキー選集 補巻1 偽造するスターリン学派』 トロツキー著、対馬忠行編、中野潔、大屋史朗訳、現代思潮社、1968年/現代思潮新社、2008年
  • 『第四インターナショナル』 トロツキー著、大屋史朗訳、現代思潮社(トロツキー文庫)、1971年
  • 『ヨーロッパとアメリカ――帝国主義に関する二つの演説』 トロツキー著、大屋史朗、西島栄、坂本透、湯川順夫訳、柘植書房、1992年

分担執筆[編集]

  • 『中国文化大革命――批判と分析』 『新批判』編集委員会編、新批判社、1969年
  • 『日本共産党批判』 沢村義雄、織田進著、新時代社(国際革命文庫)、1974年
  • 『討論・中国をどう見るか――中国文化大革命の分析と批判』 新時代社編、新時代社、1979年

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 絓秀実、井土紀州、松田政男ほか共著『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』明石書店、2005年、96頁
  2. 2.0 2.1 穂坂久仁雄「西京司」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、205頁
  3. 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、224-225頁
  4. 4.0 4.1 高沢皓司、高木正幸、蔵田計成『新左翼二十年史――叛乱の軌跡』新泉社、1981年、9頁
  5. 5.0 5.1 立花隆『中核VS革マル(上)』講談社(講談社文庫)、1983年、58-59頁
  6. 6.0 6.1 松村良一「日本革命的共産主義者連盟」『戦後革命運動事典』211-212頁
  7. 板橋真澄「パブロ主義」『戦後革命運動事典』234頁
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 『全学連各派――学生運動事典』120-121頁
  9. 『中核VS革マル(上)』76-77頁
  10. 松村良一「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、213頁
  11. 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」いいだもも、蔵田計成共編著『検証内ゲバ Part2――21世紀社会運動の「解体的再生」の提言』、社会評論社、2003年、219-221頁
  12. 板橋真澄「酒井与七」『戦後革命運動事典』104頁
  13. 立花隆『中核VS革マル(下)』講談社(講談社文庫)、1983年、204頁
  14. 14.0 14.1 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」同、218頁
  15. 第三章 最初の試練 ― 安保闘争と左翼中間主義とのたたかい ― 日本革命的共産主義者同盟小史
  16. 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」同、221-222頁

関連文献[編集]

  • 江藤正修編『資料集 戦後左翼はなぜ解体したのか』同時代社、2006年

外部リンク[編集]